日本歴史地名大系 「有田皿山」の解説
有田皿山
ありたさらやま
〔皿山の形成〕
佐賀藩主鍋島直茂は豊臣秀吉の朝鮮侵攻に参加した際、朝鮮から多数の人を連行し、その中の一人、李参平(初代金ヶ江三兵衛)が一七世紀初め泉山の白磁鉱を発見、上白川
皿山の地はもと田中村といったというが、慶長絵図はこの地を
一方貞享・明和・天保・安政の各郷村帳には有田皿山として次の地名を書き出している。山とあるのは皿山、すなわち窯場の所在地で、傾斜地に登窯を築いたことによるものであろう。また本町通りを町、裏通りを村といった。なお外尾山より以下に記す地名は、幕末には有田皿山から
貞享四年(一六八七)改 「上泉山村・上幸平町・上幸平山中樽町・大樽山中嶋村・大樽町
明和九年(一七七二)五月改補 「泉山より東有田皿山」として「上泉山
天保一〇年(一八三九)春 「上泉山是より末有田皿山之分・上幸平町・下幸平山中樽山・中樽村・大樽町・上幸平山・白川山・三間屋村・稗古場山・赤絵町・中野原町・岩屋河内山・外尾山・上南川原山・大法山・黒牟田山・広瀬山」
安政二年(一八五五)二月 「内辺山」として「泉山分
〔佐賀藩と皿山〕
有田焼は伊万里津を通して全国、さらには海外とも取引されたが、藩では有田皿山を重視し、代官を置いて支配した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報