木屋村(読み)こやむら

日本歴史地名大系 「木屋村」の解説

木屋村
こやむら

[現在地名]寝屋川市木屋町・木屋元こやもと町・香里西之こうりにしの町・香里南之こうりみなみの町・寿ことぶき町・豊里とよざと町・日新につしん町・松屋まつや

茨田まんだ郡に属し、淀川左岸沿いの平坦地の村。太間たいま村の北東にあり、淀川国役堤上を京街道が通る。木屋は「きや」の転訛したもので古くは淀川分流の分岐点にあたり、上流から運ばれる木材を管理する木屋があったことから生れた地名といわれる(寝屋川市誌)

正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高四九七石余、ほかに葭年貢高三石五斗余。慶安二年(一六四九)永井尚政の検地では高六八九石余、反別五二町余、うち新田一〇町六反余・畑四町二反余・屋敷九反余・永荒三町三反余(寝屋川市誌)


木屋村
きやむら

[現在地名]総領町木屋

稲草いなくさ村の西南に位置し、北方田総たぶさ川が流れる。集落は西南に延びる田総川支流の谷に点在し、村域も西南方に細長く続くが、途中中津藩領安田やすだ(現双三郡吉舎町)を挟んで飛郷がある。中世には田総庄に含まれ、下地中分の折に地頭方に属したといわれる。旧名金屋かなやと称したともいい、「国郡志下調書出帳」は「当村古へは金屋村と申候よし申伝へ候へ共、旧記相知不申何故に金屋を木屋に改候と申事も相知れ不申」と記すが、もし金屋といわれたとするなら嘉元三年(一三〇五)六月一〇日付の備後国田総庄雑掌成観地頭代重宗連署和与状(田総文書)に名がみえる。


木屋村
こやむら

[現在地名]和束町大字木屋

笠置かさぎ(現笠置町)木津きづ川下流右岸に位置し、村中伊賀街道が通る。北方杣田そまだ村へは木屋峠を越えて結ばれる。木津川の流筏・水運とかかわって古くから集落が形成されたと考えられ、「京都府地誌」は「本村宝亀中ヨリ和束郷ニ属シ一ノ渓谷タリシヲ、当初草水くさずノ民此所ニ家屋ヲ構ヘ木材ヲ運搬ス、因テ木屋浜ト称ス、嗣後漸ク部落ヲ成シ、今ノ称ヲ用ユ、相伝フ草水ハ本郡切山村ノ内ナリト」と伝承を記す。和束杣の材木積出しの津であったと伝える。

江戸時代には和束郷の一村で、高一八九・一二三石、禁裏新御料(享保一四年山城国高八郡村名帳)。明治一〇年代の調べでは田一四町余、畑六・九町余、戸口は五六戸、二五三人、物産に製茶砥石があった(京都府地誌)


木屋村
こやむら

現黒木町中央部の木屋・北木屋きたごやに比定される。弘安七年(一二八四)四月一二日の少弐景資書下写(五条家文書/史料纂集)にみえる「木小屋」は当地と思われ、同四年のモンゴル襲来の際に当地地頭の香西度景は閏七月五日肥前国御厨子崎みくりやこざき(現長崎県田平町か)海上で敵の大船に乗り移って合戦し、舎弟広度は敵兵とともに海中に没したというが、本文書は検討を要する。当地を名字の地とする木屋氏は正平年間(一三四六―七〇)南朝方として九州北部を転戦し(正平八年七月日「木屋行実軍忠状」木屋文書/南北朝遺文(九州編)三など)、征西将軍宮から桑原くわはら(現福岡市西区)三〇町領家分、高良こうら(現久留米市)のうち八院はちいん(現大木町)など(のち頼香跡井河半分)を兵粮料所として与えられた(同一五年六月五日「征西将軍宮令旨」同文書/南北朝遺文(九州編)四など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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