木浦村(読み)きのうらむら

日本歴史地名大系 「木浦村」の解説

木浦村
きのうらむら

[現在地名]伯方町木浦・古江ふるえ

伯方はかた島東部にある。大きく突出したかねさき矢里頭やりとう崎の二つの岬からなる。三方が海で、北は岩城いわぎ島、南はおお島に対する。西部は大深おおみ山により有津あろうづ村、小林山で北浦きたうら村と接する。土地は全体に低平で、よく耕地化されている。北部の瀬戸浜せとはま塩田は文政元年(一八一八)に築調、古江浜ふるえはまは万延元年(一八六〇)に築調された。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項に「木浦村 日損所、野山有、林少有」とあり、村高一五一石八斗とある。寛永一三年(一六三六)の木浦村検地帳によれば、田一五町八反、畠二二町八反、山畑二一町四反で、水田が多い。


木浦村
きゆうらむら

[現在地名]七山村大字木浦きうら

たき川の支流古明神ふるみようじん川沿いの坂口さかぐち古村ふるむら博多屋敷はかたのやしきの集落と、大西おおにし仁部にぶ川)沿いの野郭のぐるめ井手上いでかみの集落よりなる。これらはわずかな谷間の平坦地に点在する。村の南東にかり山・五軒屋ごけんや山がある。正保絵図に「木浦山村」とある。

古代、松浦郡衙より、佐賀郡北山ほくざんおよびやま(→厳木町への通路にあたっており、天正二年(一五七四)竜造寺隆信は草野攻めの時、鳥巣とりす(現浜玉町)から、この村を通って滝川たきかわ村へ出ている。


木浦村
このうらむら

[現在地名]能生町木浦

烏帽子えぼし山東麓、日本海に注ぐ木浦川流域と河口に広がる。上流から中尾なかお尾花おばな新戸あらと海岸に広がる浜木浦はまこのうらの集落からなる。中世近海航路の宿港であったと推定される。永正八年(一五一一)七月日の越後守護上杉定実袖判安国寺領所付(米沢市関興庵蔵)に「一所沼河保内木浦、今者不知行」とみえ、安国あんこく(現上越市)の所領であった。正保国絵図に高二四〇石余とある。天和三年郷帳では高四四六石四斗余である。新戸の字殿村とのむらには越後国守城長茂の配下殿村六郎が館を置いたが、木曾義仲により敗走したとの伝えがある。字新戸の曹洞宗東陽とうよう寺の本尊は木造大日如来像である。現北蒲原郡中条なかじよう町の乙宝おつぽう寺本尊と同木との伝えがある。


木浦村
きうらむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 木浦

胡麻山ごまやま村の北西、十根とね川の上流に位置する。木裏とも記す。下福良掛三九ヵ村の一つで、五ヶ所組に属する。村内には小村として財木たからぎ村・つゝ良村があった(延享三年「村覚」那須家文書)。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として木浦とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑二反余(高二斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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