寺伝によれば、日蓮が建長五年(一二五三)鎌倉
しかし鎌倉における寺伝には異説もある。文明二年(一四七〇)成立の「伝灯鈔」に日印は「其後名越谷ニ本勝寺ト云ヘル寺ヲ立テ、一門徒ノ旛ヲ被上ノミナラズ、三箇ノ重宝ヲ相続スル間我コソ日朗ノ正嫡ナレト被申出、是ガ六条門徒ノ起リニテハ侍リ」とあり、「与中山浄光院書」には「六条開闢ハ建武四年丁丑宰相公日祐ト云人、上洛シテ一両年在京アリテ、如今門徒可立存候トテ、関東ヨリ日静ヲ呼ノボセ申テ、六条本国寺ノ開山に成申サルヽ也」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市山科区にある日蓮宗大本山。大光山と号する。摩訶一院日印の弟子日静が,鎌倉松葉谷本勝寺を京都六条の地に移して,本国寺と称したのに始まる。本国寺は同じく京都の妙顕寺と共に,〈京都日蓮宗二十一箇本山〉の代表格として威勢を振るった。この本国寺が〈本圀寺〉と改称したのは,江戸時代の初期に水戸光圀が当寺を訪れたことによるという。本国寺の霊宝は,立像の釈迦仏,日蓮真筆の《立正安国論》,佐渡流罪からの赦免状であり,一般に〈三箇霊宝〉と称され,特に立像の釈迦像は公家の近衛政家をはじめ数多くの人々に信仰された。参詣者を多く集めた本国寺は,法華一揆が盛んな頃には拠点の一つとして武備をそなえ,堀を掘るなど要塞を固めていた。1536年(天文5)の天文法華の乱に当たっては,最後まで戦ったが敗れ,堺に避難した。江戸時代の中期に旧観に復したが,天明の京都大火により再び灰燼(かいじん)に帰し,その復興に多くの苦心を重ねた。1969年から現在地に移転。
執筆者:佐々木 馨
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
京都市山科(やましな)区御陵(みささぎ)大岩町にある日蓮(にちれん)宗の寺。日蓮宗四大本山の一つ。山号は大光山。本尊大曼荼羅(まんだら)(日蓮筆と伝える)。日蓮の松葉(まつば)ヶ谷(やつ)の草庵(そうあん)を第4世日静(にちじょう)(足利尊氏(あしかがたかうじ)の叔父)が京都へ移し、本国寺と称したというが、起源については異説もある。中世、洛中法華(らくちゅうほっけ)二十一本山の一寺として尊崇された。法系は六条門流とよばれた。天文(てんぶん)法華の乱(1536)に、延暦(えんりゃく)寺衆徒に攻められ灰燼(かいじん)に帰したが、のち復興された。豊臣(とよとみ)秀吉は朱印地百七十七石を与え、秀吉の姉日秀尼(にっしゅうに)が拡大に努力し、徳川光圀(みつくに)は寺号を本圀寺と改めた。1788年(天明8)大火にかかり、経蔵などわずかを残すのみとなった。西本願寺北にあった経蔵(加藤清正建立、国重要文化財)は1971年(昭和46)現在地へ移建された。伊東法難会(え)(5月12日)、松葉ヶ谷法難会(8月27日)、御会式(おえしき)(10月12日)を催す。
[田村晃祐]
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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