本多利長(読み)ほんだ・としなが

朝日日本歴史人物事典 「本多利長」の解説

本多利長

没年元禄5.12.16(1693.1.21)
生年:寛永12(1635)
江戸前期の大名。通称は石見,越前守。本多忠利と井上正就の娘の嫡男。妻は松平(大河内)正綱の娘。正保2(1645)年閏5月26日に家督を相続し,三河国岡崎藩主となる。同年6月27日遠江国横須賀5万石に転封したが,天和2(1682)年2月22日,不行跡と領内への悪政,前年の巡見使への対応不適切により城地を召し上げられる。ただし祖先の功労により新たに出羽村山1万石を与えられた。文武を学ぶが学問を鼻にかけ,勇を専らにするため領民にも辛い沙汰が多かった。村山転居ののちは民への哀憐の心も出るようになったといわれる。<参考文献>『本多越前守利長家之覚書』(『改定史籍集覧』)

(藤實久美子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本多利長」の解説

本多利長 ほんだ-としなが

1635-1693* 江戸時代前期の大名。
寛永12年生まれ。本多忠利の子。正保(しょうほ)2年三河(愛知県)岡崎藩主本多家(定正系)4代となり,その直後遠江(とおとうみ)(静岡県)横須賀にうつされる。天和(てんな)2年藩政の不行き届きなどで領地没収となったが,父祖忠勤により出羽(でわ)村山郡(山形県)に1万石をあたえられた。元禄(げんろく)5年12月16日死去。58歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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