日本大百科全書(ニッポニカ) 「李秀成」の意味・わかりやすい解説
李秀成
りしゅうせい
(1823―1864)
中国、太平天国後期の最高軍事指揮官。現在の広西チワン族自治区藤県の貧農出身で、一兵卒から身をおこし、相次ぐ軍功により1859年忠王に封ぜられた。英王陳玉成らとともに、1856年の大分裂で弱体化した太平天国の屋台骨を支えた。60年以後、おもに江浙(こうせつ)地方の占領と経営にあたり、60年と62年に上海(シャンハイ)に進攻し、英・仏軍、常勝軍、淮(わい)軍と激闘した。天王(洪秀全)の宗教的熱狂に覚めた批判をもち、戦略面でもしばしば対立したが、愚忠の観念から結局はこれに従った。天京(南京(ナンキン))放棄策がいれられず、天京最後の戦いの指揮をとり、敗北後幼天王を擁して脱出したが捕らえられ、64年8月、曽国藩(そうこくはん)に処刑された。虜囚のなかで書いた「自述」は、太平天国研究の最重要文献だが、曽国藩は天王の病死に関する部分などかなり改竄(かいざん)して公刊した。また、この自述が投降の書であるか否かの評価が、中国共産党内の対立つまり毛沢東(もうたくとう)と劉少奇(りゅうしょうき)の対立と絡んで、文化大革命の口火の一つとなった。
[小島晋治]