日本歴史地名大系 「村庄」の解説
村庄
むらくしのしよう
現浜松市西部、浜名湖東岸の
前掲正中二年三月日の最勝光院領庄園目録に「村櫛庄東郷・西郷」とみえ、領家は北条重時跡で、本家得分は本年貢一〇〇石と綾被物一重(七月御八講料)だが、近年現地収納高で六〇石に減少し、確実なところでは五〇石ほどとある。同目録は東寺百合文書に案文がある。立庄時期は不明だが、承安三年(一一七三)の最勝光院建立後まもなくその所領も設定されたと考えられ、当庄も鎌倉時代初期には最勝光院領となっていたと推定される。嘉暦元年三月、後醍醐天皇によって最勝光院は東寺に寄進され、その所領も東寺領となった。正中二年の目録はその前提として作成されたものである。嘉暦四年四月二〇日の村櫛庄年貢算用状案(教王護国寺文書)によれば、本家寺用米である呉松分・和地分の年貢高はいずれも六石六斗六升六合六勺で、本来各一〇石であった本家年貢が地頭方二・領家方一の割合で分割されている。一方、領家方は村別でなく、刑部僧都坊・次郎兵衛給・道性・多手別当の四人に二〇石が割当てられている。年貢高は合計四九石九斗三合、代銭三五貫文であった。
村庄
むらのしよう
現西郷町の北部、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報