茨城県東部の旧市。1954年市制。1994年勝田市と合体して,ひたちなか市と改称。旧市域は那珂川下流部左岸の台地,沖積地に位置し,東は鹿島灘に臨む。那珂川河口部にある中心街は,江戸時代,水戸藩による商港開設が発展の契機となり,水運の町として繁栄した。明治中期以後,水運が衰えたため漁業に活路を見いだし,漁港の整備が進められた。1951年以来,漁港の改築が行われたが,漁船大型化への対応が不十分なため,63年からは従来の河口港の下流に外洋港が建設され,あわせて冷凍・冷蔵施設,水産加工場も整えられた。カツオ,マグロ,サンマなど沖合・遠洋漁業を主体とした大漁港となっている。旧市域の大半を占める台地ではサツマイモの生産が盛んで,乾燥いもの特産がある。阿字ヶ浦,平磯は海水浴場として知られ,磯崎町には式内社酒列磯前(さかつらいそざき)神社が鎮座する。
執筆者:中川 浩一
那珂湊の地名の初見は文和4年(1355)11月26日の〈六地蔵寺蔵写経奥書〉にあり,近世以前から湊村の呼称として使われた。大化(645-650)前代は仲国(なかのくに),大化以降は常陸国那珂郡に属し,平城宮出土の木簡によればワカメが貢進されている。古代には幡田(はた)郷,中世には戸田野(へたの)郷と称した。1426年(応永33)から江戸氏の,1590年(天正18)から佐竹氏の支配に属し,佐竹氏の秋田移封後は水戸藩領となる。江戸時代,水戸藩が軍事上・経済上の要地として重視したため大いに発展,東廻航路の中継地,藩内物資の集散地としてにぎわい,その経済力は水戸城下をしのぐほどであった。安政年間(1854-60)には反射炉2基が建設された。幕末,水戸藩争乱の際は最大の激戦地となり,甚大な被害を受けた。
執筆者:鈴木 暎一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
茨城県北東部、ひたちなか市東部の地区。旧那珂湊市。1954年(昭和29)那珂湊町が平磯(ひらいそ)町、前渡(まえわたり)村の一部を編入して市制施行。1994年(平成6)勝田市と合併して、ひたちなか市となる。ひたちなか海浜鉄道湊線と国道245号が通じる。貝塚や古墳群が多く、古代は仲国(なかのくに)、次いで那珂郡幡田(はた)郷、中世は江戸氏、佐竹氏の支配、近世は水戸藩に属した。奥州と江戸を結ぶ海運の中継港として栄え、イワシ漁業も盛んであった。国防上の要地として砲台、異国船番所、反射炉、郷校文武館などが置かれた。また、徳川光圀(みつくに)が夤賓(いんひん)閣を、歴代の水戸藩主が比観(ひかん)亭、観濤(かんとう)所をつくり、水戸八景の一つ「水門帰帆(みなとのきはん)」とした景勝地でもある。1864年(元治1)に始まった元治甲子(げんじかっし)の乱の激戦地ともなった。明治時代はたばこ製造業が専売法移行まで盛大を極めた。那珂川河口に那珂湊漁港があり、茨城県第一の漁業基地で、水産加工業が盛ん。北部の水戸射爆場跡地は、1989年(平成1)着工の常陸那珂(ひたちなか)港(現在は重要港湾茨城港の常陸那珂港区)や、1991年指定の国営ひたち海浜公園となった。大洗(おおあらい)県立自然公園に属し、阿字ヶ浦(あじがうら)は北関東最大の海水浴場。
[櫻井明俊]
『『那珂湊市史料』全7巻(1975~1982・那珂湊市)』
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…河川改修が不十分であった第2次大戦前は茨城県内でたびたびはんらんによる水害が起こった。河口部左岸に位置する那珂湊は,江戸時代から明治初年まで東廻海運の中継港であり,那珂川舟運によって下野(しもつけ)地方とも結ばれ,物資集散地としてにぎわった。現在も,沖合漁業を主体とする漁港が開かれているが,人工港建設によって河口港としての性格は弱まった。…
※「那珂湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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