東大和市(読み)ヒガシヤマトシ

デジタル大辞泉 「東大和市」の意味・読み・例文・類語

ひがしやまと‐し【東大和市】

東大和

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日本歴史地名大系 「東大和市」の解説

東大和市
ひがしやまとし

面積:一三・五四平方キロ

都の中央北部に位置し、東は東村山市、西は武蔵村山市、南は小平市・立川市、北は村山むらやま貯水池(多摩湖)を挟んで埼玉県所沢市。市域の北は狭山丘陵(標高約一五〇メートル、東西約一〇キロ)で、南へ広がる武蔵野台地は東流する奈良橋ならはし川と空堀からぼり川によって浅い谷が刻まれ、南端を野火止のびどめ用水が流れる。東端を西武鉄道多摩湖線、南端を同拝島線、西を多摩都市モノレール、中央を東西に新青梅しんおうめ街道(主要地方道新宿―青梅線)、南北に青梅街道(同上)が通る。

〔原始〕

狭山丘陵の複雑に発達した舌状台地に遺跡が分布する。狭山丘陵の谷は都民の飲料用貯水池である村山貯水池(多摩湖)となっているが、昭和五一年(一九七六)水抜きの際に行われた市民参加の発掘調査によって各時代の暮しぶりの解明が飛躍的に進んだ。旧石器時代後期の遺物は多摩湖たまこ遺跡群の発掘においても若干採集され、丘陵上の蔵敷の弁天ぞうしきのべんてん遺跡では細石刃の製作に用いられた黒曜石製の石核が見つかっている。しかし遺跡は市の中央部を東流する空堀川南岸に集中しており、清水上砂台しみずかみすなだい遺跡・丸山まるやま遺跡・丸山二ノ橋まるやまにのはし遺跡・街道内かいどうない遺跡などがその代表である。縄文時代の遺跡は中期の集落形成が顕著で、丘陵上の鹿島台かしまだい八幡谷戸はちまんやと諏訪山すわやまなどの遺跡では一定の規模をもつ集落が形成されたことがうかがえる。縄文晩期から弥生時代にかけての遺跡や遺物は未発見だが、平安時代後期になると集落が形成され、上ノ台うえのだい廻田谷めぐりたやツなどで当時の住居跡が見つかっている。

〔中世〕

古代律令制下では武蔵国多摩郡に属した。平安時代後期になると、狭山丘陵地域には武蔵七党の一つである村山党が台頭してきた。村山党は村山・山口・宮寺・金子などの諸氏からなっており、鎌倉幕府御家人として活躍している(「吾妻鏡」など)。市域には鎌倉街道の支道が走っていたと考えられ、約一〇〇基ほど存在する板碑の多くもこの街道付近に集中している(現在はほとんどが円乗院蔵)。板碑の紀年は南北朝初期の四基が南朝年号で、それ以外が北朝年号であることから、内乱初期の市域は南朝方の影響下にあったが、その後北朝方の影響下に組み込まれていったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東大和市」の意味・わかりやすい解説

東大和〔市〕
ひがしやまと

東京都西部,狭山丘陵の南麓にある市。立川,小平両市の北に位置し,北は埼玉県所沢市に接する。 1954年町制施行し,大和町成立。 70年市制時に,東京の大和の意で東大和となった。古代から空堀川とその支谷に集落が発達し,中世には武蔵七党の1つ村山党の根拠地であった。江戸時代の青梅街道の開設,野火止用水の建設で畑作地が拡大した。第2次世界大戦後は都営住宅や大規模な住宅団地が建設され,住宅都市を形成。北端に東京都の上水道水源多摩湖 (村山貯水池) がある。西武鉄道拝島線が通る。面積 13.42km2。人口 8万3901(2020)。

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