東方会議(読み)トウホウカイギ

デジタル大辞泉 「東方会議」の意味・読み・例文・類語

とうほう‐かいぎ〔トウハウクワイギ〕【東方会議】

大正10年(1921)原敬首相が山東・シベリア撤兵問題を協議するために開いた会議
昭和2年(1927)田中義一首相兼外相が、満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策を決定するために開いた会議。→田中メモランダム

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精選版 日本国語大辞典 「東方会議」の意味・読み・例文・類語

とうほう‐かいぎトウハウクヮイギ【東方会議】

  1. [ 一 ] 大正一〇年(一九二一原内閣が山東・シベリア撤兵問題の善後措置を協議するために開いた会議。
  2. [ 二 ] 昭和二年(一九二七田中内閣が第一次山東出兵後の対中国基本政策を決定するために開いた会議。中国本土では現地保護主義を、満蒙では積極的介入主義を採る、いわゆる田中外交の方針が決定された。

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改訂新版 世界大百科事典 「東方会議」の意味・わかりやすい解説

東方会議 (とうほうかいぎ)

(1)第1次 原敬内閣が1921年5月16~25日に開催した対中国・シベリア政策に関する会議。閣僚,朝鮮総督斎藤実(まこと),関東長官山県伊三郎,関東軍司令官河合操,中国駐在公使小幡酉吉(おばたゆうきち)らが参集した。満蒙は国防上,経済的生存上重要な関係を有するとの見解から,満蒙地域に日本の勢力を扶植することが満蒙政策の根幹であるとの方針を確認し,満蒙における日本の位置を確実にするため,張作霖を援助する政策,シベリア撤兵問題,山東問題等について決定がなされた。

(2)第2次 田中義一内閣が1927年6月27日~7月7日に開催した対中国政策に関する会議。田中兼任外相ら閣僚,関東長官児玉秀雄,関東軍司令官武藤信義,中国駐在公使芳沢謙吉以下中国関係外交官,陸海軍関係部局長らが参集した。会議に先だって外務政務次官森恪は参謀本部員鈴木貞一,奉天総領事吉田茂らと協議して,満州を中国本土から切り離して日本の政治的勢力圏に入れることについて意見を一致させた。また関東軍は〈対満蒙政策に関する意見〉を策定し,東三省(黒竜江省,吉林省,奉天省)の自治宣布,張作霖の排斥武力行使の準備などを主張した。一方,田中らは張を擁立して満蒙の分離支配をはかる考えであった。最終日に田中外相により発表された〈対支政策綱領〉は,上記の諸種の考えを折衷したもので,満蒙における日本の特殊の地位権益の防護と同地方の治安維持の覚悟を表明するとともに,中国本部については〈穏健分子〉(国民党)を支持して〈不逞分子〉(共産党)を鎮圧させることをはかり,居留民の現地保護方針をうたった。綱領は他方で満蒙における門戸開放を唱えたが,田中内閣が対中国強硬方針を確立したものとして内外の注目を集め,事実,その後の満蒙鉄道交渉,第3次山東出兵などの強硬策を導いた。また〈田中メモランダム〉はこの会議にもとづく上奏文として国際的疑惑をよんだ。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東方会議」の意味・わかりやすい解説

東方会議
とうほうかいぎ

田中義一(ぎいち)内閣が1927年(昭和2)6月27日~7月7日に開催した対中国政策に関する会議。田中兼任外相ら閣僚、中国関係外交官、関東軍司令官ら陸海軍関係者が参集した。関東軍や外務政務次官森恪(もりかく)らは張作霖(ちょうさくりん)を下野させ、満蒙(まんもう)を中国本部から分離することを構想したが、田中らは張を擁立して満蒙を支配する考えであった。最終日に発表された「対支政策綱領」はこれらの考えを折衷したもので、満蒙における特殊権益の防護と治安維持の覚悟を表明するとともに、中国本部における居留民の現地保護方針をうたった。田中内閣が対中国「積極」外交の方針を確立したものとして内外の注目を集め、事実、その後の第二次山東(さんとう)出兵などの強硬策を導いた。なお原敬(はらたかし)内閣が1921年(大正10)5月に開催した対中国・シベリア政策に関する会議も東方会議とよばれる。

[江口圭一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東方会議」の意味・わかりやすい解説

東方会議
とうほうかいぎ

(1) 1921年5月 16~17日,首相原敬によって開かれた会議。閣僚,斎藤実朝鮮総督,山県伊三郎関東庁長官,小幡酉吉駐華公使らが出席。山東撤兵,シベリア撤兵問題,張作霖の限定的援助 (同 17日の閣議決定) などが協議された。 (2) 1927年6月 27日~7月7日外相兼任の首相田中義一が,第1次山東出兵後対中国政策を決めるために開いた会議。森恪外務政務次官のほか,外務省各局長,陸海軍次官,関東庁長官,関東軍司令官らが参集。最終日田中は「対支政策綱領」を提示,いわゆる田中外交の基本方針が示された。綱領は対中国権益擁護のためには軍事力行使もありうること,特に満蒙地域の権益保持には積極的な行動をとる旨を強調。会議では同地域の分離構想もひそかに検討された。この会議ののち満蒙の位置づけについて奉天総領事吉田茂,駐華公使芳沢謙吉,在満陸軍武官の間に意見の相違があり,その調整をめぐり,森が渡満し第2次東方会議ともいうべき会議が大連で開かれた (→大連会議 ) 。

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百科事典マイペディア 「東方会議」の意味・わかりやすい解説

東方会議【とうほうかいぎ】

1927年6月27日〜7月7日,田中義一内閣山東出兵後の対中国基本政策決定のために開催した会議。田中兼任外相,森恪(つとむ)次官が推進。国民党支持,共産党鎮圧を図り,中国本土での居留民現地保護主義と満蒙積極介入の対中国政策綱領を発表。中国では田中メモランダムが上奏されたとして排日宣伝を強化。なお1921年5月原敬内閣が対中国・シベリア対策について朝鮮総督斎藤実(まこと),関東長官山県伊三郎,関東軍司令官河合操(みさお)らを招集して開いた会議も東方会議とよぶ。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東方会議」の解説

東方会議
とうほうかいぎ

(1)1921年(大正10)5月16~25日に原敬内閣が開催した極東・東アジアの国際問題に関する会議。原首相の対中国「不干渉」方針のもとでシベリア撤兵問題・山東権益還付問題が協議された。(2)1927年(昭和2)6月27日~7月7日に田中義一内閣が開催した対中国政策に関する会議。蒋介石の北伐への対応と満蒙特殊権益の確保とを目的とし,田中兼任外相の訓示として「対支政策綱領」が示された。しかし統一的な方針をまとめるには至らなかった。一方中国側は,のちにこの会議の決定にもとづくものと称して「田中上奏文」を公表し,日本の侵略的意図を対外的にアピールした。

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旺文社日本史事典 三訂版 「東方会議」の解説

東方会議
とうほうかいぎ

1927(昭和2)年6〜7月,田中義一内閣が対中国積極政策を決定した会議
第1次山東出兵直後,東京で外務・軍部首脳を集め協議。中国革命に対抗して親日的地方政権を援助し,満蒙地方を中国から分離独立させる方針を決定,中国・列強の反発を買った。

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