(1)第1次 原敬内閣が1921年5月16~25日に開催した対中国・シベリア政策に関する会議。閣僚,朝鮮総督斎藤実(まこと),関東長官山県伊三郎,関東軍司令官河合操,中国駐在公使小幡酉吉(おばたゆうきち)らが参集した。満蒙は国防上,経済的生存上重要な関係を有するとの見解から,満蒙地域に日本の勢力を扶植することが満蒙政策の根幹であるとの方針を確認し,満蒙における日本の位置を確実にするため,張作霖を援助する政策,シベリア撤兵問題,山東問題等について決定がなされた。
(2)第2次 田中義一内閣が1927年6月27日~7月7日に開催した対中国政策に関する会議。田中兼任外相ら閣僚,関東長官児玉秀雄,関東軍司令官武藤信義,中国駐在公使芳沢謙吉以下中国関係外交官,陸海軍関係部局長らが参集した。会議に先だって外務政務次官森恪は参謀本部員鈴木貞一,奉天総領事吉田茂らと協議して,満州を中国本土から切り離して日本の政治的勢力圏に入れることについて意見を一致させた。また関東軍は〈対満蒙政策に関する意見〉を策定し,東三省(黒竜江省,吉林省,奉天省)の自治宣布,張作霖の排斥,武力行使の準備などを主張した。一方,田中らは張を擁立して満蒙の分離と支配をはかる考えであった。最終日に田中外相により発表された〈対支政策綱領〉は,上記の諸種の考えを折衷したもので,満蒙における日本の特殊の地位権益の防護と同地方の治安維持の覚悟を表明するとともに,中国本部については〈穏健分子〉(国民党)を支持して〈不逞分子〉(共産党)を鎮圧させることをはかり,居留民の現地保護方針をうたった。綱領は他方で満蒙における門戸開放を唱えたが,田中内閣が対中国強硬方針を確立したものとして内外の注目を集め,事実,その後の満蒙鉄道交渉,第3次山東出兵などの強硬策を導いた。また〈田中メモランダム〉はこの会議にもとづく上奏文として国際的疑惑をよんだ。
執筆者:江口 圭一
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田中義一(ぎいち)内閣が1927年(昭和2)6月27日~7月7日に開催した対中国政策に関する会議。田中兼任外相ら閣僚、中国関係外交官、関東軍司令官ら陸海軍関係者が参集した。関東軍や外務政務次官森恪(もりかく)らは張作霖(ちょうさくりん)を下野させ、満蒙(まんもう)を中国本部から分離することを構想したが、田中らは張を擁立して満蒙を支配する考えであった。最終日に発表された「対支政策綱領」はこれらの考えを折衷したもので、満蒙における特殊権益の防護と治安維持の覚悟を表明するとともに、中国本部における居留民の現地保護方針をうたった。田中内閣が対中国「積極」外交の方針を確立したものとして内外の注目を集め、事実、その後の第二次山東(さんとう)出兵などの強硬策を導いた。なお原敬(はらたかし)内閣が1921年(大正10)5月に開催した対中国・シベリア政策に関する会議も東方会議とよばれる。
[江口圭一]
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(1)1921年(大正10)5月16~25日に原敬内閣が開催した極東・東アジアの国際問題に関する会議。原首相の対中国「不干渉」方針のもとでシベリア撤兵問題・山東権益還付問題が協議された。(2)1927年(昭和2)6月27日~7月7日に田中義一内閣が開催した対中国政策に関する会議。蒋介石の北伐への対応と満蒙特殊権益の確保とを目的とし,田中兼任外相の訓示として「対支政策綱領」が示された。しかし統一的な方針をまとめるには至らなかった。一方中国側は,のちにこの会議の決定にもとづくものと称して「田中上奏文」を公表し,日本の侵略的意図を対外的にアピールした。
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