吉林省(読み)キツリンショウ

デジタル大辞泉 「吉林省」の意味・読み・例文・類語

きつりん‐しょう〔‐シヤウ〕【吉林省】

吉林

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改訂新版 世界大百科事典 「吉林省」の意味・わかりやすい解説

吉林[省] (きつりん)
Jí lín shěng

中国東北部の一級行政区。省都は長春。1自治州(延辺朝鮮族自治州),26市(8地級市,18県級市),19県,3自治県からなる。北は黒竜江省,南は遼寧省,西は内モンゴル自治区と境し,東はロシアのいわゆる極東州の南端および朝鮮民主主義人民共和国と接する。東西約600km,南北約300km,面積約19万km2,全国総面積の約2%にあたる。人口2680万(2000)。地勢は南東に高く,北西に向かって低くなる。東部は長白山地からなり,主峰は標高2691mの白頭山で,朝鮮との国境にそびえる火山である。火口湖の天池は松花江の源流をなす。また中朝国境を流れる鴨緑江,図們江(豆満江)の源でもある。長白山地は主脈のほか張広才嶺,老爺嶺,威虎嶺などの支脈が主脈に平行に北東~南西に走り,その北西方,四平,長春を結ぶ線よりやや東方の大黒山以東は丘陵地帯をなす。さらにその北西は東北平原の一部で,長春と公主嶺の中間が松花江と遼河との分水界にあたるが,その傾斜はきわめてゆるやかである。

 1月平均気温は-15℃~-20℃で,長白山地では-22℃に下がる。河川は12月から4月上旬まで凍結する。7月平均気温は全省23℃前後だが,長白山地のみ20℃前後である。年降水量は長白山地南麓の通化では1000mmをこえるが,北西に向かって減少し,長春付近で約600mm,西部では400mm程度にすぎない。雨は夏に多雨で,冬は積雪も少ない。夏の高温多雨なことが本省の農業を可能にしている。だが雨量の東西間の相違の結果,東部は森林が繁茂し長白山地を中心にチョウセンゴヨウマツ,カラマツが主体をなす樹海を形成しているが,西にゆくほど樹木は減少し,北西部では見渡すかぎりの草原となる。しかも,清末の漢族の入植以後,過剰な農地開墾により地表の植生が失われて表土が露出し,西風または北西風が強くなる春には,北西部では飛砂がはげしく,移動砂丘が形成されているところもある。つまり人為的原因による砂漠化が進行しているわけで,風砂の害から住宅や耕地を守るため大防護林帯が本省西部に作られている。

 本省東部は,かつては満州族およびその前身にあたる諸部族の活動の舞台であった。約3000年前の周代に長白山地北部一帯で活動していた粛慎(しゆくしん),漢代の挹婁(ゆうろう)などは,満州族の最も早い前身とされ,森林地帯内部で狩猟を営んでいたが,これが本省の住民の最も古いものである。隋末から唐初にかけては,靺鞨(まつかつ)諸部族によって長白山地に渤海(ぼつかい)国が建てられ,宋代には女真族により強大な金王朝が形成されたが,これらも満州族の前身にあたる。明代以前には満州族は狩猟を主たる経済活動としていたが,明代以後は狩猟,漁労のほか牧畜,農業など多角的な生産を行い,定住農業も発展していた。そして家畜,獣皮,きくらげ,ニンジン(朝鮮人参),きのこなどの特産品を明の絹織物や農具,鉄器類と交換していた。また本省の西部では古代以来匈奴,契丹,韃靼(だつたん)などが遊牧を主とした暮しをしていたが,宋代に国を建てた遼は渤海国を滅ぼし,本省東部をも支配下においた。明代には少数の漢族,朝鮮族の移住も見られ,農業に従事したが,その影響は少なかった。明末以後満州族の南下,清王朝の成立の結果,満州族は大量に南遷し,また祖宗の地には漢族を流入させないよう封禁(ふうきん)政策をとったため,農地は荒廃した。特に長白山地地域は,ニンジン採取と狩猟場とされ,また東豊,海竜,輝南,盤石一帯は清の囲場とされたし,松花江沿岸の法特から長春の南,開原県北東を経て山海関に至る〈柳条辺牆〉の西方がモンゴル族の牧地とされ,東に越えることは許されなかった。だが封禁政策は必ずしも厳守されたわけでなく,華北の窮民で東北に流出するものは後を絶たず,モンゴルの王公も18世紀末には長春一帯で漢族農民に農地開墾をさせるようになり,1799年(嘉慶4)には清朝の政府も既成事実を認めて,長春庁を置き,範囲を定めて開墾を許すことになった。開墾が進むにつれて,酒造業なども発達し,小都市も出現した。1803年封禁政策が解除され,82年(光緒8)吉林に墾務局が設置されてからは,移民は急増し,1900年前後に各地に府県が置かれるようになった。19世紀後半からは本省西部の延辺地区,通化地区に移住してきた。また鴨緑江,図們江流域では伐木が盛んとなった。

 行政上は,本省は清初には寧古塔昂幇章京の管轄下にあった。1662年(康熙1)昂幇章京は将軍と改められ,76年寧古塔等処将軍は吉林に移り,副都統が寧古塔に置かれ,さらにのち琿春,三姓(黒竜江省依蘭),阿勒楚喀(黒竜江省阿城),伯都訥(扶余)にも副都統がおかれたが,1900年前後府県が続々と設立されるに至ったので,1907年(光緒33)将軍,副都統を廃し,吉林巡撫をおき,本土なみの行政組織となった。当時吉林省は4道に分かれ,県は39,ほかに2設治局があり,省都は吉林であった。

 吉林省に大量の移住者が流入し,農林業の発展した時期は,帝国主義諸国が中国での利権獲得のため殺到した時期でもあった。1861年営口が開港場にされ,吉林省産大豆が大量に輸出されるに至った。帝政ロシアは1903年東清鉄道南満支線(のちの南満州鉄道,今の哈大線)を貫通させ,従来吉林を中心に形成されていた交通体系に代わって,鉄道沿線の長春,公主嶺,四平などの町が成長していった。日露戦争後,長春以南の鉄道は日本が利権を獲得し,第1次世界大戦の機会に乗じて,吉長,吉会,四洮,吉海線などの鉄道の敷設権を得た。また省内各地の鉱物の採掘権や森林の伐採権も獲得し,さらに1931年九・一八事件(満州事変)以後,日本がつくった傀儡(かいらい)政権である満州国の首都は長春におかれ,新京と改名され,本省は日本の植民地的存在と化した。省内各地では日本資本による略奪的な鉱物採掘や森林伐採が進み,松花江の豊満ダムの建設にも着手し,資源の日本への輸送と対ソ作戦を目ざした鉄道建設が推進された。また省内の20以上の県に武装農業移民が入植し,中国農民の土地を取りあげて入植地とした。このような日本の支配に抗して,楊靖宇(1905-40)らは反満抗日の運動を展開し,長白山地の峻険な地形と密林を利用しつつ,日本軍の討伐に頑強な抵抗を示したし,延辺地区では金日成らが,朝鮮独立運動を推進した。延辺地区には,朝鮮に対する日本の植民地統治政策の結果土地を奪われて流入した人々が多かっただけに,独立運動(朝鮮光復運動)の本拠として大きな役割を果たしたのである。

 第2次大戦後,本省の大部分は解放区となり,蔣介石の軍事支配下にあった吉林,長春も,1948年3月と10月に相前後して解放された。新中国成立後,本省の省都は長春に置かれ,農林業だけでなく鉱工業建設がめざましい勢いで進んだ。長春は国営第一自動車工場が立地し,吉林には大型化学工業コンビナートが立地,また吉林,通化および延辺地区には多くの紙・パルプ工業が立地している。地下資源では扶余一帯の吉林油田のほか,通化の鉄,遼源,通化,蛟河の石炭,延辺地区開山屯の銅,天宝山の亜鉛などがあり,松花江に豊満のほか,白山,紅石のダム,鴨緑江に雲峰などのダムが建設された。鉄道建設では,解放後長白山地内部に森林資源開発を目ざした鉄道が数線建設されたことが注目される。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉林省」の意味・わかりやすい解説

吉林〔省〕
きつりん

チーリン(吉林)省」のページをご覧ください。

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