1856年岩手県生まれ。新聞記者や外交官を経て立憲政友会に入党。逓信相や内務相を歴任後、1918年に62歳で首相に就いた。高等教育機関の充実や鉄道敷設を推進し、対米重視の国際協調外交を指向。藩閥や軍部と巧みに渡り合い、政党政治の伸長に尽力した。首相在任中の21年、東京駅で刺殺された。
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明治・大正時代の政党政治家。安政(あんせい)3年2月9日、南部藩重臣の次男として生まれたが、1875年(明治8)兄たちと相談のうえ分家するにあたり、士族を離脱して平民の身分となった。1871年に上京、1876年に司法省法学校に入るが、3年で退校し、『郵便報知新聞』『大東日報』の記者を経て1882年に外務省に入る。ここでは外相を務めた井上馨(いのうえかおる)、陸奥宗光(むつむねみつ)にその資質を見込まれ、農商務省参事官、外務省通商局長を歴任して外務省次官にまで昇進した。しかし1897年の陸奥の死とともに朝鮮駐在公使を最後に外務省を退官して『大阪毎日新聞』の社長に就任。1900年(明治33)伊藤博文(いとうひろぶみ)の国民政党論に基づいて創立された立憲政友会に参画し、この年に組閣をみた第四次伊藤内閣の逓相(ていしょう)となった。1902年には盛岡市から代議士に当選、以後死去に至るまで連続当選した。1903年立憲政友会の総裁が伊藤から西園寺公望(さいおんじきんもち)に交代し、原は松田正久(まつだまさひさ)らとともに党の実権を握るようになった。実業界でも北浜銀行頭取、古河鉱業(ふるかわこうぎょう)(現古河機械金属)副社長の地位につき、財界のなかでその地歩を築き上げながら、政友会と政界の内部において実力を発揮していった。西園寺の政治手腕に疑問と不満を抱く原は、長州閥の桂太郎(かつらたろう)に接近し、桂と西園寺の交互の組閣になる「桂・園」妥協政治時代を実現する演出者となった。原自身も第一次・第二次西園寺内閣の内相となり、山県有朋(やまがたありとも)を頂点とする長州閥の政治支配力に郡制廃止や二個師団増設問題などで揺さぶりをかけながら、藩閥政治に割って入り、政友会の影響力を強めていこうと努力を重ねた。その後、大正政変を経て第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の内相を務め、1914年(大正3)西園寺の後を継いで政友会の総裁に就任、横田千之助(よこたせんのすけ)を右腕として重用しながらその卓越した政治力で党内をまとめあげていった。原総裁下の政友会は第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣下の総選挙で第二党に転落したが、1917年の総選挙では第一党に返り咲き、翌1918年夏の米騒動で原内閣が誕生するに及んで原と政友会の「黄金時代」を現出した。
原の首相就任は「平民宰相」の誕生として受け止められた。山県系の官僚勢力を一掃し種々の策を弄(ろう)して政権を手にした原も、「平民」ということばを愛し続けていた。若いときに宿屋に泊まるたびに宿帳にわざわざ「岩手県平民」と得意になってしたためていた原は、首相になるまで3回爵位を受ける機会があったが、青年時代からの信念を守り続けて、これを固辞してきた。また首相になっても地位・名誉・財産欲に走る政治家のタイプとは異なり、清潔さを貫き通した。
原は内閣で積極政策をとったにもかかわらず、物価騰貴の抑制、経済の立て直し、労働争議の鎮静に苦慮し、そのうえ政府・政友会にまつわる疑獄事件が浮かび上がり、苦境に陥れられていった。政権を担当して3年目には疲労困憊(こんぱい)し、妻の浅(あさ)に疲れを訴え、辞職したい意向まで語っていた。政治家としての偽りのない心境であったろう。その原は、大正10年11月4日、東京駅で刺客中岡艮一(こんいち)の手で刺殺され世を去った。この暗殺事件は裁判では大塚駅の転轍(てんてつ)手である一青年の単独犯行としてかたづけられたが、その司法処理は平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)大審院長、鈴木喜三郎(すずききさぶろう)の司法閥の判断による結論であった。しかし原を死に追いやった背景には、政教社の五百木良三(いおぎりょうぞう)の予告どおり右翼組織が動いていた。それにしても政党政治家としての原は「平民」の信念を貫き、公私の別を明らかにし続けた。死後、伯爵下賜の話が出たが、浅夫人は原の遺志という理由でこれを拝辞した。また遺書のなかでは、政友会の遺産100万円余のうち返却分15万円を差し引いて残りを次期総裁に引き渡すよう指示していた。「正二位(しょうにい)大勲位平民」、これが原敬の死後の肩書である。まことに奇妙な印象を与えるが、そのひととなりにふさわしい。
なお、青年時代から首相時代に及ぶ膨大な日記は、日本の近代政治史を知るうえでの比類のない資料である。
[金原左門]
『テツオ・ナジタ著『原敬』(1974・中央公論社)』▽『原奎一郎・山本四郎編『原敬をめぐる人びと』正続(1981、82・日本放送出版協会)』▽『前田蓮山著、細川隆元監修『日本宰相列伝7 原敬』(1985・時事通信社)』▽『山本四郎著『評伝 原敬』上下(1997・東京創元社)』▽『山本四郎著『原敬・政党政治のあけぼの』(清水書院・清水新書)』▽『内川永一朗著『デモクラシー 原敬と新渡戸稲造』(1998・新渡戸基金)』▽『玉井清著『原敬と立憲政友会』(1999・慶応義塾大学出版会)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書11 原敬 上』『歴代総理大臣伝記叢書12 原敬 下』(2006・ゆまに書房)』▽『佐高信著『平民宰相原敬伝説』(2010・角川学芸出版)』▽『服部之総著『明治の政治家たち』上下(岩波新書)』▽『川田稔著『原敬と山県有朋――国家構想をめぐる外交と内政』(中公新書)』
明治・大正期の政治家。盛岡藩重臣の次男。1871年(明治4)上京してカトリックの神父の学僕となり苦学。76年司法省法学校に入学,79年〈賄(まかない)征伐〉で退校,改進党系の《郵便報知新聞》記者となる。82年官僚派の《大東日報》主筆に転進。井上毅,井上馨に認められ同年外務省に入り,翌年天津領事として赴任,才腕を示し,85年パリ公使館書記官に転じた。89年,外相大隈重信をきらって農商務省に移り,陸奥宗光の知遇を受け,通商局長を経て,95年外務次官に進んだ。この間,外交官採用制度を確立,日清戦争時の陸奥外交を補佐した。96年公使として朝鮮に赴き,閔妃(びんひ)殺害事件のあとの日本勢力回復に努め,翌年大隈がまた外相となったのを機会に退官,大阪財界に迎えられて《大阪毎日新聞》社長に就任,読者を3倍に増やす経営手腕を発揮した。
このあと1900年政友会結成に参画,幹事長を経て第4次伊藤博文内閣の逓信大臣に就任。翌年北浜銀行頭取,さらに05年には陸奥の親戚で井上馨が監督する古河鉱業の副社長になった。この間,02年盛岡市より代議士に選出,以来その死まで連続当選した。日露戦争中より桂太郎首相と戦後の政権授受につき交渉を進め,06年1月西園寺公望内閣を実現させ,内務大臣に就任。ついで11年8月成立の第2次西園寺内閣でも内相として入閣。12年末二個師団増設問題により内閣が倒れるまで,いわゆる桂園内閣時代において,松田正久とならぶ政友会の二大支柱の一人として活躍した。すなわち内務官僚の政友会接近を促進し,一方,鉄道・港湾事業により政友会の地盤を拡大し,政友会が衆議院議席の過半数を占めることに成功した。この勢力を背景に,抜群の交渉能力をもって藩閥勢力と取引し,他方では郡制廃止,小選挙区制法案などで藩閥勢力を脅かし,政友会の政治的地位を高めた。第1次護憲運動で桂内閣を倒したあと,第1次山本権兵衛内閣の内相となり,西園寺引退のあとを受けて14年6月政友会総裁に就任した。15年3月の第12回総選挙では第2次大隈内閣の野党として大敗を喫し第二党に転落したが,党内とりまとめにも手腕を発揮し,次の寺内正毅内閣では是々非々主義の立場を示しながらも外交調査会に参加するなど準与党の地位につき,17年4月の第13回総選挙で第一党に返り咲いた。
18年夏の米騒動では事態を静観し,寺内辞任のあとを受けて,政党政治家として最初の首相に指名され,陸・海・外3相を除く閣僚に政友会員をあてる最初の政党内閣を9月29日に組織した。世論は爵位をもたず衆議院に議席をもつ首相の初めての出現を〈平民宰相〉と呼んで歓呼して迎えた。第1次大戦以来の好況下における資本主義の急速な発展を背景に,国防の充実,教育の振興,産業の奨励,交通機関の整備の四大政綱を掲げて積極政策を推進し党勢の拡大に努め,第41議会で小選挙区制を実現し,第42議会を解散して政友会の絶対多数を実現した。この力を背景に,進歩的社会運動を抑圧し,普選即行,治安警察法改正などの要求を拒んだ。対外的にはイギリス,アメリカとの協調に努めつつ中国権益の維持をはかり,三・一運動を契機に植民地長官武官制を文武官併任に改めた。
第1次大戦後の階級闘争の激化におびえる藩閥官僚勢力は山県有朋以下原に依存し,貴族院の最大会派〈研究会〉は政友会と提携,内閣は貴衆両院に確固たる地盤をもつかつてない強力な存在となった。しかし力の政治にひそむ腐敗は,満鉄事件,アヘン事件など政友会関係者の疑獄事件になってあらわれ,前内閣以来のシベリア出兵も尼港事件で破綻を示し,民心は去った。ワシントン会議と戦後不況に直面して政策転換を模索中,1921年11月4日,政友会京都支部大会出席のため東京駅改札口(南口)にさしかかったとき,大塚駅員中岡艮一(こんいち)の短刀に刺されて死去した。盛岡市大慈寺に葬られる。第2次大戦後公刊された《原敬日記》(1965-67)は明治・大正政治史の根本史料として著名である。
執筆者:松尾 尊兊
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(山本四郎)
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明治・大正期の政治家 首相;内相;政友会総裁。
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1856.2.9~1921.11.4
明治・大正期の政党政治家。盛岡藩士(家老職)の次男として盛岡に生まれたが,のち分家して平民となる。司法省法学校退学後,郵便報知新聞社をへて1882年(明治15)外務省に入省。陸奥宗光の知遇を得て農商務省・外務省の要職を歴任し,外務次官をへて駐朝鮮日本公使。98年官界を辞して大阪毎日新聞社社長となる。1900年立憲政友会結成に参加,同年幹事長,第4次伊藤内閣の逓信相になる。02年衆議院議員に当選し,以後連続8回当選。総裁西園寺公望(きんもち)を補佐し桂太郎との提携を推進,積極政策を掲げて政友会の勢力拡大を実現した。14年(大正3)政友会総裁に就任。18年内閣を組織し平民宰相とよばれたが,多数による力の政治や利益誘導政治に対する批判も強く,東京駅で暗殺された。「原敬日記」全6巻が出版されている。
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…叔父伊達兵部少輔宗勝,庶兄田村右京宗良がそれぞれ3万石を分知され後見となり,幕府国目付の毎年派遣の下に藩政が行われた。奉行奥山大学常辰が当初権勢をふるったが,兵部(宗勝)は63年(寛文3)これを罷免,幕府老中酒井忠清と姻戚関係を結び,奉行原田甲斐や側近出頭人を重用して一門以下の反対勢力を弾圧,斬罪切腹17名を含む120名余を処分した。66年には亀千代毒殺未遂のうわさがたち医師河野道円父子が殺害され,68年にも同様の事件があって兵部らの陰謀とする非難が高まった。…
※「原敬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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