日本大百科全書(ニッポニカ) 「原敬内閣」の意味・わかりやすい解説
原敬内閣
はらたかしないかく
(1918.9.29~1921.11.13 大正7~10)
立憲政友会総裁の原敬が寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣から政権を引き継いで成立した内閣。元勲ではない政党の党首が組織した最初の政党内閣で、組閣の大命を受けた原は、陸・海相、外相を除いて政友会員をもって閣僚を構成した。
寺内内閣からの政権授受は、1918年(大正7)の7月下旬から9月の初めにかけて1道3府38県に波及した米騒動と、ジャーナリストの言論擁護・寺内内閣弾劾運動がきっかけになっていた。原は、政友会が寺内内閣の準与党として「是々非々」主義をとってきた関係上、寺内の病身による辞任と元老山県有朋(やまがたありとも)の政治判断と相まって、円滑に政権を手に入れることができたのである。原内閣は、新聞記者前田蓮山(れんざん)が述べていたように、歓呼の声をもって国民に迎えられ、その声の多くは平民宰相・純政党内閣の出現を歓迎したものであった。「平民」ということばが流行語にまでなり、軽食堂のなかに「平民食堂」の看板を掲げる店も現れた。この風潮をみて原はまんざらではなかったようである。原は、政府だけの意思で政治を強行するのではなく、国民の意思に合致した善政を行うことを誓い、さらに、自然に逆らい人為的に極端な政策をとり経済を混乱に陥れることのない方針を掲げた。こうして原は首相として「太く短く」やる決心を固め、政友会が主張してきた四大政綱に基づいて政策を推し進めることにしたのである。その四大政綱とは、教育施設の改善充実、交通機関の整備、産業および通商貿易の振興開導・一般物価の調節、国防の充実である。原内閣はこの積極政策の実現に努めるかたわら、貴族院研究会と提携することに成功し政友会の勢力の安定と拡大を目ざした。また内閣は、植民地朝鮮での三・一独立運動をきっかけに、植民地長官武官制を文武官併任に改正し、外交政策ではイギリス、アメリカとの協調外交を展開しながら中国での権益の維持を図ろうとした。さらに国内においては、民本主義の潮流を背景に普選運動の高まりにあおられ、かつこの動きに対抗して選挙権を拡大することとなった。この選挙権の拡張は、第41議会で小選挙区制と組み合わせて、有権者資格の範囲を直接国税の納入額10円以上から3円以上に切り下げた衆議院議員選挙法の改正法として実現した。そのうえ内閣は、野党が普選法案を提出した第42議会を解散して、この改正法を総選挙で実施し、政友会は絶対多数を獲得したのである。こうして原内閣は、議会で絶対多数を得た政友会の力に依拠して、普選の実施、治安警察法改正などの民主主義的要求を拒み、もう一方では労資協調をもくろむ協調会を設立したり、国民の共同調和の実をあげるために民力涵養(かんよう)運動を推進したりした。また急進的な社会運動を抑圧することにも奔走し、大日本国粋会の結成を積極的に後援したりした。
しかし1920年の春に勃発(ぼっぱつ)した戦後恐慌(きょうこう)は、原のとる「力の政治」に陰りを落としていた。第一次世界大戦中の好景気の反動として過剰商品、過剰取引が問題となり、生糸の暴落を手始めに茂木惣兵衛(もぎそうべえ)商店が倒産したほか多くの商社が深刻な打撃を受け、銀行も取り付け騒ぎとなって、政府の積極政策は手詰まり状態に落ち込んだ。原はこの「財界動乱」に大きな衝撃を受けたばかりか、満鉄幹部・関東庁拓殖局幹部の起こした満鉄・アヘン両汚職事件で苦境にたたされた。さらに尼港事件(にこうじけん)でシベリア干渉戦争の失敗が明らかになり、こうしたなかで内閣は国民の支持を失っていった。そのため、一方では郡制廃止を実現し、帝国農会系統の全国の農会を政友会色で染め上げて党勢拡張に成功した原内閣も、国民的利益にたって国の発展を図っていく成果をあげえないまま、大正10年11月4日原首相が東京駅で刺殺され、その翌日、内田康哉臨時首相が閣僚の辞表を提出することで幕を閉じた。
[金原左門]
『金原左門著『大正期の政党と国民』(1973・塙書房)』▽『三谷太一郎著『近代日本の司法権と政党』(1980・塙書房)』▽『林茂・辻清明編『日本内閣史録2』(1981・第一法規出版)』▽『川田稔著『原敬 転換期の構想――国際社会と日本』(1995・未来社)』▽『玉井清著『原敬と立憲政友会』(1999・慶応義塾大学出版会)』