イタリア、ベネチアの商人マルコ・ポーロの行った東方旅行(1271~95)の体験談を、物語作者ルスティケロが記録した旅行記。正式の名前は『世界の叙述』Description of the world。マルコ・ポーロは、小アジア、イラン、パミール、東トルキスタン、甘粛(かんしゅく)、長安(西安)を経て中国北辺を横断し、上都(じょうと)(内モンゴル自治区)でフビライ・ハンに会って、そのまま元朝に仕えた。その後、河北、陝西(せんせい)、四川(しせん)から雲南へ、さらに山東、浙江(せっこう)、福建へと、広く中国各地を旅行し、福建のザイトン(泉州)からインドシナ、ジャワ、マレー、セイロン(スリランカ)、インドのマラバルなどを経由して、ペルシア湾のホルムズに達した。旅行地域の風俗、慣習のほかに、中国人の記録にはみられない元朝の宮廷内の事情が記されており、また、日本を黄金の国としてチパングChipanguの名で初めてヨーロッパに紹介した。その内容があまりにももの珍しいため、初めは信じられなかったが、そののち、多くのヨーロッパ人がアジアへ旅行するにつれて、この書の記事の正確さが知られるに至った。これはコロンブスのアメリカ発見の機縁となり、またヘディンやスタインは、その中央アジア探検に、この書を座右から離したことがなかった。ルスティケロの原本は早く散逸したが、それを基にして潤色、加筆、または削除した多くのテキストができ、そののち幾多の変遷を経て、今日の諸テキストが伝来した。これらの異本は、ムールとペリオとの共編によって校合(きょうごう)のうえ出版されている。
[護 雅夫]
『愛宕松男訳・注『東方見聞録』全二冊(平凡社・東洋文庫)』
マルコ・ポーロが1270-95年にわたる東方旅行でえた知識を記憶とメモによって口述し,これをピサの物語作者ルスチケロが記録したもの。その内容は,序章でこの旅行が敢行された経緯,中国に至って元朝に仕えた模様およびイル・ハーン国使臣に同伴して帰国するにいたった事情を略述し,続く本文では西・中央アジアを横断する行程の子細,モンゴル朝廷の諸事情,中国国内旅行でえた見聞および帰路の航海で経過した南海諸国の実況を報告する。ルスチケロの記録した祖本はたぶん中世イタリア語で書かれたのであろうが,すでに散逸し,現存するのはこれに基づく多様の古写本・古版本である。L.F.ベネデットはこれらの異本140余種を検討して次の6系統に整理した。(1)F本 イタリア語がかった中世フランス語で書かれた14世紀の写本,(2)FG本 グレゴアールなる人物が祖本を標準フランス語に訳した14世紀の写本,(3)TA本 第2次祖本を1305年ころにトスカナ方言で訳した写本,(4)VA本 TAとは別個の第2次祖本をベネチア語に訳した14世紀初期の写本,(5)P本 14世紀中葉,フランチェスコ・ピピノによるVA本のラテン訳写本,(6)R本・Z本 F本以前のテキストから派生した諸写本。Rはラムージオによるイタリア語訳の1559年版本,Zは1470年ころのラテン語訳写本。いずれも近世ヨーロッパ語の翻訳があるが,邦訳としてはFG本,VA本,R本および諸テキスト集成本のみに限られている。
執筆者:愛宕 松男
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ベネチアの商人マルコ・ポーロが口述した旅行記。1298年,ルスティケロの筆録によって成立。マルコが1271年に故郷を出発し,95年に帰着するまでに見聞した中世東洋の世界が記述される。日本のことが「ジパング」の名で紹介され,元寇についての記述もある。イスラム教徒の独占する東西貿易に対して,キリスト教徒がはじめて進出した時点の記録で,客観的な叙述から中世アジア研究の貴重な史料。ジェノバとの戦で捕虜となり,獄中で口述筆録された。「東洋文庫」所収。
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正しくは『世界の記述』。マルコ・ポーロが1298年ジェノヴァに捕えられていたとき,獄中で語った東方旅行の見聞談を同囚の友人が筆録したもの。のちに出版され,西欧人の東洋への関心を誘った。日本が黄金に富んだ島ジパングとして幻想的に紹介されている。
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… この時期には大航海を支える科学技術の分野でも大きな発展があった。マルコ・ポーロの《東方見聞録》を典拠とする東方に関する知識はすでに1385年に描かれたカタロニア地図に取り入れられ,また航海用のポルトラノ図作成の技法も発達していた。また船も帆装や船体の構造に北欧型と地中海型との総合が生じ,カラック,カラベルが造られた。…
… 帰国後ほどなき98年,貿易上の競合関係にあったベネチアとジェノバの間に戦端が開かれるや,マルコは従軍してガレー船艦長の指揮顧問官となったが,クルゾラ沖の海戦に敗れてジェノバの獄につながれた。この間,同室の囚人ピサの物語作者ルスチケロに旅行内容を口述したのが《マルコ・ポーロ旅行記》(《東方見聞録》)の祖本である。彼の旅行は球体としての地球世界がまだ認知されていない中世人の平面的東西世界を,北回りの陸路と南回りの海路で周回した最初の体験であるとともに,その体験を記録に残したという点で,とくに重要な意味をもつ。…
…またチンギス・ハーンが版図を拡大したのち,ローマ教皇は使節を送って交流を図ったが,このようにして伝えられた東方のうわさに好奇心を刺激されたマルコ・ポーロが,20余年の旅を終えて1295年にベネチアに戻ってきた。彼が口述した《東方見聞録》は,まさに〈旅行者の話〉の典型であったかもしれないが,それ以後幾世紀にもわたって,ヨーロッパ人のアジアについての知識の重要な源泉であった。
[ルネサンス以後]
いわゆる大航海時代の到来によって,ヨーロッパ人が足跡をアメリカ大陸,喜望峰を巡ってインドに印するようになると,当然のことながらその記録が公にされる。…
※「東方見聞録」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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