東禅寺(読み)とうぜんじ

精選版 日本国語大辞典 「東禅寺」の意味・読み・例文・類語

とうぜん‐じ【東禅寺】

東京都港区高輪にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は仏日山。慶長一五年(一六一〇嶺南崇六が赤坂溜池に創建。寛永一三年(一六三六)現在地に移転。幕末にはイギリス仮公使館が置かれ、東禅寺事件があった。

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日本歴史地名大系 「東禅寺」の解説

東禅寺
とうぜんじ

[現在地名]本郷町南方

本郷ほんごうから南下して忠海ただのうみ(現竹原市)に至る街道(三次往還)の西、蟇沼の観音寺ひきぬのかんのんじ谷にあり、初め蟇沼寺と称した。暦応三年(一三四〇)正月八日の預所橘朝臣寄進状(東禅寺文書)に、「蟇沼寺今者号東禅寺」とある。蟇沼山補陀落院と号し、真言宗御室派。もと楽音がくおん法持ほうじ院末。本尊十一面観音は行基作の立木仏で、中古、落雷による火災のとき鋸で足下を切って持出したと伝えられており、秘仏とされている。

当寺は沼田ぬた庄領家側と関係が深く、預所橘氏や弁海べんかい名の名主源氏が宗教的拠点とした。

東禅寺
とうぜんじ

[現在地名]港区高輪三丁目

江戸時代の東海道(ほぼ国道一五号)の西側にある寺。海上禅林仏日山東禅興聖禅寺と号し、臨済宗妙心寺派、本尊は釈迦如来。慶長一五年(一六一〇)日向飫肥おび(現宮崎県日南市)の人嶺南崇六を開山、飫肥藩主伊東祐慶を開基として溜池ためいけに建立。同家の菩提寺とされた。寛永一三年(一六三六)御用地となって芝高輪しばたかなわ村に替地を与えられた(寺社書上)。なお寛永江戸図の溜池近辺に「れいなん」とみえるのは当寺のこととされ、同地の霊南れいなん坂の名称は開山にちなむという(江戸名所図会)。妙心寺派江戸三箇寺の一寺で、塔頭は松寿院・宗法院・心源院・興聖院があり、境内約一万五千坪、総門は海に臨む。

東禅寺
とうぜんじ

[現在地名]盛岡市北山二丁目

聖寿しようじゆ寺南東に位置する。大宝山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。盛岡五山の一寺で、寺領二四二石、塔頭として文化八年(一八一一)建立の涼徳りようとく(寺領一二石)があった(盛岡砂子)。同書によると、建武年中(一三三四―三八)無尽を開山として遠野の附馬牛つきもうし(現遠野市)に創立され、寛永九年(一六三二)盛岡藩の二代藩主南部利直の死去の際には当寺の大英が陸奥三戸において引導師を勤めている。なお東禅寺宛の慶長一八年(一六一三)一〇月一八日の南部利直知行宛行状(宝翰類聚)によると「遠野之内於不動館村」において掃除料一五〇石を宛行われている。

東禅寺
とうぜんじ

[現在地名]多古町寺作

西之谷にしのさくにある。土橋山阿弥陀院と号し、真言宗室生寺派。本尊阿弥陀如来。天平年中(七二九―七四九)鑑真を開山として創建されたと伝える。中世には千葉氏の有力所領の一つ千田ちだ庄の中心に位置し、千葉胤直が自害した寺として著名。鎌倉時代には金沢称名寺との関係が深く、鎌倉末期に当寺の長老であった本如房湛睿は延元四年(一三三九)称名寺の三世長老となっている。鎌倉幕府が滅亡したときの攻防戦で戦死したとみられる在地武士の次浦氏や井土山氏の百日忌法会が元弘三年(一三三三)八月から九月にかけて営まれている(金沢文庫所蔵「法花写」奥書など)

東禅寺
とうぜんじ

[現在地名]今治市蔵敷町二丁目

もとにあり、霊樹山医王院と号し、真言宗醍醐派、本尊薬師如来。河野通信の菩提寺。

寺内薬師堂は三間四面の単層・入母屋造本瓦葺・唐様で、室町中期の特色を示し、国宝に指定された。棟札写によると、慶長一六年(一六一一)、寛永九年(一六三二)、寛文二年(一六六二)、文化二年(一八〇五)、慶応四年(一八六八)、明治三五年(一九〇二)等に修復された。

東禅寺
とうぜんじ

[現在地名]恵那市大井

JR恵那駅北方、北流する永田ながた川左岸にある。黄檗山と号し、黄檗宗。本尊は十一面千手観音。旧恵那郡中唯一の黄檗宗寺院。延宝元年(一六七三)開基通源禅徳が尾張国志段見しだみ(現名古屋市守山区)にあった廃寺大井おおい後田うしろだに移し、萬福まんぷく(現京都府宇治市)三世悲林の弟子石雲を招いて開山とした。

東禅寺
とうぜんじ

[現在地名]御船町辺田見

辺田見へたみ若宮神社の南方五〇〇メートルの丘陵上にある。黄梅山と号し、曹洞宗。本尊阿弥陀如来。永禄一二年(一五六九)熊本大慈だいじ寺五一世洞春の開山。甲斐宗運の要請によって甲斐家の菩提寺として創建された。宗運は大慈寺の再興に協力し、洞春に深く帰依していた。ある時宗運が「冬日生芽寒厳草」という詩の前句を示すと、洞春は「雪中含花洞春梅」と後半を作ったという話が伝わる。

東禅寺
とうぜんじ

[現在地名]広野町折木

高萩たかはぎのJR常磐線のトンネルの真上にあり、法壺山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。縁起によれば、文明元年(一四六九)菅股すがまた(現茨城県北茨城市)城主大塚掃部介行成が当地に移され城主となった。開山の徳翁上泉が当地の阿弥陀堂で一七日間座禅したところ、満願の日に阿弥陀如来が瑠璃の壺を捧げて現れ、これは仏法の壺である、この地に寺を建立すべしと告げた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「東禅寺」の解説

とうぜんじ【東禅寺】


東京都港区高輪(たかなわ)にある臨済宗妙心寺派の寺院。1610年(慶長15)、日向国飫肥(おび)藩主、伊東祐慶(すけのり)を開基とし、赤坂溜池(ためいけ)に創建され、1636年(寛永13)に現在地の高輪に移転した。江戸時代には伊東家をはじめ、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家の菩提寺ともなり、その寺格や境内の広さから幕府役人の詰め所としても機能していた。幕末の開国にともない、1859年(安政6)に初代英国公使オールコックが着任すると、寺はその宿所となりイギリス公使館が置かれた。1861年(文久1)には尊王攘夷派の水戸藩浪士によって襲撃され、書記官らが負傷、翌1862年(文久2)には信濃松本藩士が襲撃し、イギリス人水兵2人を殺害する事件が起きた。事件の後、公使らは安全な横浜に移り、東禅寺は公使館として使われなくなった。現在の寺域は往時に比べて縮小し、建物の多くは失われているが、宿所として使われた部屋や庭が残り、幕末の外交、政治を知るうえで貴重であることから、2010年(平成22)に国の史跡に指定された。JR東海道新幹線ほか品川駅から徒歩約7分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の東禅寺の言及

【本郷[町]】より

…南方(みなみがた)にある真言宗楽音(がくおん)寺は平安時代の創建と伝え,中世には小早川氏の氏寺として栄えた。その南にある同宗東禅寺はもと蟇沼(ひきぬ)寺とよばれ,楽音寺とともにかつての沼田荘の宗教的拠点であった。御年代(みとしろ)古墳(史),梅木平(ばいきひら)古墳,貞丸古墳など町域には多くの古墳がある。…

※「東禅寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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