松岡寺跡(読み)しようこうじあと

日本歴史地名大系 「松岡寺跡」の解説

松岡寺跡
しようこうじあと

[現在地名]小松市波佐谷町

波佐谷はさだに集落南方の標高七〇―一〇〇メートルの丘陵に広がる波佐谷城跡一角にある。磯前いそざき神社背後の標高七〇メートルほどの平坦地は一部に土塁が残存し、城跡あるいは寺跡である可能性が高い。松岡寺は現在内浦うちうら町にあり、近世以降の記述については内浦町の項目で記している。松岡寺は本願寺八世蓮如の三男北隣坊蓮綱(兼祐)開基とする。蓮綱が二俣本泉ふたまたほんせん寺の兄蓮乗に招かれ、能美郡池城いけのじように坊を開いたことに始まり、ついで古屋ふるや(古屋敷)に移り、さらに波佐谷へ転じたという。また古屋にあった時、在所名が聞苦しいとのことで、松の木の多い所であったことから松岡と改めたが、それを蓮如が寺号として与えたともいう(蓮如上人塵拾鈔)。波佐谷松岡寺縁起(聖光寺蔵)では、宝徳三年(一四五一)に蓮如が建立した波佐谷坊に蓮綱の古屋敷ふるやしき村の坊を合併し、永正一四年(一五一七)蓮綱の上人号勅許の時、松岡寺の寺号を認められたとしている。しかし宝徳三年説は認めがたく、いずれにしても蓮綱による建立は蓮如が越前吉崎よしさき(現福井県金津町)を退去し、京都山科坊に移った文明一〇年(一四七八)以後のことであろう。

松岡寺蓮綱は「波佐谷殿」「蓮谷殿」とも称され、若松わかまつ本泉寺蓮悟・山田光教やまだこうきよう寺蓮誓とともに賀州三ヵ寺・三山の大坊主などとよばれ、清沢せいさわ(現鶴来町)願得がんとく寺実悟も加えて一家衆寺院として、加賀の本願寺派真宗門徒頂点に立った。また能美郡山内やまのうち(手取谷)鮎滝あゆたき(現鳥越村)に支坊を開いた(「蓮如上人塵拾鈔」など)。なお「反故裏書」によれば、永正一六年新坊建立停止を記して「私建立の在所、若松清沢二俣、波佐谷に鮎滝、山田に滝野の外は略定」とある。蓮綱は文明一七年九月二一日幕府より摂津政親知行分の加州倉月くらつき庄内礒部いそべ青崎(現金沢市)の守護富樫政親による押領の排除を命じられ(「室町幕府奉行人奉書」美吉文書)、翌一八年近衛家領加州安江やすえ(現同上)の本所代官に対し、本泉寺蓮悟とともに便宜をはかるよう命じられている(「後法興院政家記」同年八月二四日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報