滝野(読み)たきの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「滝野」の意味・わかりやすい解説

滝野
たきの

兵庫県中南部、加東郡(かとうぐん)にあった旧町名(滝野町(ちょう))。現在は加東市の北西端を占める一地区。1925年(大正14)町制施行。1954年(昭和29)加茂(かも)村と合併。2006年(平成18)滝野町は東条(とうじょう)、社(やしろ)の2町と合併して市制施行、加東市となる。中央を加古(かこ)川が南流し、旧町域の大部分は平坦(へいたん)地である。JR加古川線と国道175号が縦貫し、中国自動車道、国道372号が東西に走って滝野社(やしろ)インターチェンジがある。加古川のつくる奇勝闘竜灘(とうりゅうなだ)の東岸は、江戸時代には加古川水運の積換え地として栄え、いまも船問屋、商家群に昔のおもかげを残している。酒米で知られた播州(ばんしゅう)米の産地であるが、観光農業のブドウ・イチゴ・クリ園などが増えている。地場産業に播州織地酒がある。中国自動車道開通など交通基盤の整備に伴い、工業団地の造成が進み、先端企業の進出もみられるようになった。五峰山(ごぶさん)光明寺(こうみょうじ)は6世紀末の開基と伝えられ、日本一幅善導大師自画像や国指定重要文化財の「銅製如来坐像(にょらいざぞう)」など寺宝が多い。大規模な野外ステージのある県立播磨(はりま)中央公園、加古川流域滝野歴史民俗資料館がある。

大槻 守]

『『滝野町史』全2冊(1989・滝野町)』

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日本歴史地名大系 「滝野」の解説

滝野
たきの

[現在地名]一迫町 川口

一迫川右岸に沿う近世川口かわぐち村の小名で、宿老遠藤氏の一円所拝領地であった。「川口村安永風土記」によれば、遠藤玄信の代の慶長九年(一六〇四)築館つきだて(現築館町)より所替になって以来の居住で、居屋敷は東西七〇間・南北一二〇間。居屋敷を除く町場が一町、小人町二町二一間で屋敷数三三。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「滝野」の意味・わかりやすい解説

滝野
たきの

兵庫県中南部,加東市北西部の旧町域。加古川中流域にある。 1925年町制。 1954年加茂村と合体。 2006年町,東条町の2町と合体して加東市となった。中心集落の滝野は,加古川の河床に大きい岩盤があり舟の航行を阻んだため,江戸時代は加古川水運の荷物の積替地として栄えた。 1873年水路が開かれ,そこを闘竜灘と命名アユの筧どり (かけいどり) と呼ばれる漁の名所となっている。綿布,帆布,機械器具の工業もある。 1974年中国縦貫自動車道の滝野社インターチェンジが設置され,五峰山一帯に播磨中央公園が造成された。

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百科事典マイペディア 「滝野」の意味・わかりやすい解説

滝野[町]【たきの】

兵庫県中南部,加東郡の旧町。加古川中流域を占め,加古川線,中国自動車道が通じる。機械,化学製品などの製造業が盛ん。酒米を産する。加古川の急流闘竜灘は景勝地で,アユの筧(かけい)取りで有名。2006年3月,加東郡町,東条町と合併し市制,加東市となる。19.77km2。1万1530人(2003)。

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改訂新版 世界大百科事典 「滝野」の意味・わかりやすい解説

滝野 (たきの)

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