(笠谷和比古)
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肥前(ひぜん)国(長崎県)平戸(ひらど)藩(6万石)第10代藩主。随筆の大作『甲子夜話(かっしやわ)』の著者。幼名は英三郎(えいざぶろう)、名は清(きよし)。父政(まさし)(1735―1771)が壮年で死去したため、清が成人するまでの間、祖父誠信(さねのぶ)が再任し、1775年(安永4)に至って16歳で藩主となり、従(じゅ)五位下壱岐守(いきのかみ)に叙された。清は幼少より慧敏(けいびん)で文武二道に優れ、襲職後は藩政の一新を図った。1779年には学堂維新館を開設し、諸学舎および講武場を付属させ、さらに楽歳堂(らくさいどう)、成思斎(せいしさい)などの文庫を設けて、文武学校の体裁を整え、教学の振興に努めた。1806年(文化3)11月、47歳で致仕し、第三子の煕(ひろむ)に封を譲り、江戸・本所(ほんじょ)の別邸で隠居生活に入った。1808年、かねて心形刀(しんぎょうとう)流の師岩間常稽子(いわまじょうけいし)から内示のあった表徳(ひょうとく)称号免状を授与されて常静子(じょうせいし)を名のり、別邸に若い藩士を集めて教授を始め、同時に心形刀流関係の三部作『剣談』『剣攷(けんこう)』『剣録(けんろく)』のほか『伊庭(いば)氏剣法家伝略記』『心形刀流目録辨解(べんかい)』などを述作した。ついで1821年(文政4)11月甲子の夜、親友林述斎(はやしじゅっさい)の勧めに従って見聞の筆録にかかり、以後20年間に『甲子夜話』正・続編200巻、3編100巻の内80巻に達したところで、1841年(天保12)6月没。
[渡邉一郎]
江戸後期の大名。肥前平戸藩9代の藩主。江戸藩邸に生まれた。幼名英三郎のち清(きよし),静山は号。8代藩主誠信(さねのぶ)の三男政信の子であったが,1771年(明和8)父卒するや,祖父の世子となり,75年(安永4)2月,祖父の致仕に伴って襲封し,6万1700石を領した。あたかも藩は慢性化した財政難にあったため,ただちに人事の刷新を断行し,藩政執行部を一新し,緊縮経済を確立し,財政収入の確保と計画的な処理を徹底するため,具体的な計画を立て,実行に移して,大きな成果をあげた。一方,藩校維新館を設置し,教育の組織化に努め,また城門外に薬局を創設して庶民の治療にあたらせるなど文治政策を強力に進めた。1806年(文化3)病を理由に致仕し,以後学問に専念し,書斎楽歳を造り,修史のため書籍を集め,平戸版刊行にも尽くした。随筆《甲子(かつし)夜話》28巻は有名であり,川柳にも興味を持っていた。
執筆者:朝倉 治彦
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1760.1.20~1841.6.29
江戸中・後期の大名。肥前国平戸藩9代藩主。父は8代誠信(さねのぶ)の子政(まさし)。名は清。別号雲洲。壱岐守。1775年(安永4)家督相続。同年初入国し「訓戒十条」を開示して財政再建を推進。殖産興業・新田開発を奨励。藩校維新館,江戸に感恩斎文庫,平戸に楽歳堂文庫を創設。3万冊以上の和漢洋の書籍を収集。1806年(文化3)隠居。21年(文政4)随筆「甲子夜話(かっしやわ)」278巻を著す。
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…肥前国(長崎県)北松浦郡平戸に藩庁を置いた外様中藩。藩主は松浦氏。6万1700石。松浦党に系譜をひく平戸松浦氏は,党の単位細胞である平戸党の結束を通じて在地領主として発展し,隆信(道可)の時代には,北松浦郡と壱岐国を領有する戦国大名に発展した。1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐後,本領を安堵されて近世大名となった。石高は6万3200石であったが,1664年(寛文4)4代藩主鎮信(しげのぶ)(天祥)のとき,従弟信貞に今福1500石を分知した。…
※「松浦静山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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