松浦静山(読み)マツラセイザン

デジタル大辞泉 「松浦静山」の意味・読み・例文・類語

まつら‐せいざん【松浦静山】

[1760~1841]江戸後期の大名。肥前平戸藩主。名は清。藩政改革に尽力し、藩校維新館を設立するなど学問を奨励した。随筆「甲子夜話かっしやわ」の著作がある。

まつうら‐せいざん【松浦静山】

まつらせいざん

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精選版 日本国語大辞典 「松浦静山」の意味・読み・例文・類語

まつら‐せいざん【松浦静山】

  1. 江戸後期の随筆作者。肥前国長崎県)平戸藩藩主。名は清。字は英三郎。安永四年(一七七五)襲封。藩主としては殖産を奨励し、藩校維新館を創設して教学の振興に努めた。隠退後、林述斎の勧めで「甲子夜話(かっしやわ)」正続三編二七八巻を執筆した。宝暦一〇~天保一二年(一七六〇‐一八四一

まつうら‐せいざん【松浦静山】

  1. まつらせいざん(松浦静山)

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朝日日本歴史人物事典 「松浦静山」の解説

松浦静山

没年:天保12.6.29(1841.8.15)
生年:宝暦10.1.20(1760.3.7)
江戸中期の大名,肥前国平戸藩(長崎県)藩主。幼名英三郎,のち壱岐守を称した。諱は清。号は静山,雪洲,流水,感恩斎など。実父は松浦政。政が早世したため祖父誠信の養嗣子となり(嫡孫承祖),安永4(1775)年2月に16歳で襲封。同年3月に平戸に初入部するが,そのおりに「訓戒十条」を認めて藩政の刷新を打ち出し,また藩財政の改善に取り組んだ。天明7(1787)年には財政の基本を定めた「国用法典」,寛政7(1795)年には町方,郡方,浦方の統治を規定した「仕置帳」を制定して政治制度の整備をすすめた。 好学の大名として知られ,和漢の歴史,逸話,和歌,有職故実,本草,物産,博物,民俗,蘭学など自然・人文の万般にわたって旺盛な知識欲を発揮した。静山はこれらの知識を古今の書籍に求め,また江戸への参勤交代の道すがら土地の故老に尋ね,あるいは本草学者木村蒹葭堂,考証学者で静山の師である皆川淇園,同じ学者大名たる松代藩主の真田幸貫,黒羽藩主の大関増業らとの交流の中で身につけていった。安永8年に藩校維新館を開き,翌9年には文庫として平戸に楽歳堂,江戸に感恩斎を設け,さらに天明4年には修史所としての絹煕斎を置いて「家世伝」の編纂をすすめた。また武芸にも秀で,自ら心形刀流免許を得るとともに,他方では藩内の武備を強化して海防にも怠らなかった。文化3(1806)年に致仕するまで三十余年の長きにわたって藩主の座にあったが,隠居後は江戸本所別邸にあって学問に専心し,昌平黌総裁林述斎の勧めで文政4(1821)年11月の甲子の日の夜に筆を起こし,その膨大な知識を以後20年にわたって書き綴り,ついに278巻の大著『甲子夜話』をなした。82歳の高齢で江戸に卒去し,本所天祥寺に葬られた。法号は豊功院殿静山流水大居士。<参考文献>松浦伯爵家編修所編『贈従三位壱岐守松浦清卿略伝』

(笠谷和比古)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松浦静山」の意味・わかりやすい解説

松浦静山(まつらせいざん)
まつらせいざん
(1760―1841)

肥前(ひぜん)国(長崎県)平戸(ひらど)藩(6万石)第10代藩主。随筆の大作『甲子夜話(かっしやわ)』の著者。幼名は英三郎(えいざぶろう)、名は清(きよし)。父政(まさし)(1735―1771)が壮年で死去したため、清が成人するまでの間、祖父誠信(さねのぶ)が再任し、1775年(安永4)に至って16歳で藩主となり、従(じゅ)五位下壱岐守(いきのかみ)に叙された。清は幼少より慧敏(けいびん)で文武二道に優れ、襲職後は藩政の一新を図った。1779年には学堂維新館を開設し、諸学舎および講武場を付属させ、さらに楽歳堂(らくさいどう)、成思斎(せいしさい)などの文庫を設けて、文武学校の体裁を整え、教学の振興に努めた。1806年(文化3)11月、47歳で致仕し、第三子の煕(ひろむ)に封を譲り、江戸・本所(ほんじょ)の別邸で隠居生活に入った。1808年、かねて心形刀(しんぎょうとう)流の師岩間常稽子(いわまじょうけいし)から内示のあった表徳(ひょうとく)称号免状を授与されて常静子(じょうせいし)を名のり、別邸に若い藩士を集めて教授を始め、同時に心形刀流関係の三部作『剣談』『剣攷(けんこう)』『剣録(けんろく)』のほか『伊庭(いば)氏剣法家伝略記』『心形刀流目録辨解(べんかい)』などを述作した。ついで1821年(文政4)11月甲子の夜、親友林述斎(はやしじゅっさい)の勧めに従って見聞の筆録にかかり、以後20年間に『甲子夜話』正・続編200巻、3編100巻の内80巻に達したところで、1841年(天保12)6月没。

[渡邉一郎]


松浦静山(まつうらせいざん)
まつうらせいざん

松浦静山

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改訂新版 世界大百科事典 「松浦静山」の意味・わかりやすい解説

松浦静山 (まつらせいざん)
生没年:1760-1841(宝暦10-天保12)

江戸後期の大名。肥前平戸藩9代の藩主。江戸藩邸に生まれた。幼名英三郎のち清(きよし),静山は号。8代藩主誠信(さねのぶ)の三男政信の子であったが,1771年(明和8)父卒するや,祖父の世子となり,75年(安永4)2月,祖父の致仕に伴って襲封し,6万1700石を領した。あたかも藩は慢性化した財政難にあったため,ただちに人事の刷新を断行し,藩政執行部を一新し,緊縮経済を確立し,財政収入の確保と計画的な処理を徹底するため,具体的な計画を立て,実行に移して,大きな成果をあげた。一方,藩校維新館を設置し,教育の組織化に努め,また城門外に薬局を創設して庶民の治療にあたらせるなど文治政策を強力に進めた。1806年(文化3)病を理由に致仕し,以後学問に専念し,書斎楽歳を造り,修史のため書籍を集め,平戸版刊行にも尽くした。随筆《甲子(かつし)夜話》28巻は有名であり,川柳にも興味を持っていた。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松浦静山」の意味・わかりやすい解説

松浦静山
まつらせいざん

[生]宝暦10(1760).平戸
[没]天保12(1841).6.29. 平戸
江戸時代の平戸藩主。幼名は英三郎,のち清 (きよし) 。静山は号。安永4 (1775) 年藩主襲封。幼時から学問,歌道にすぐれ,領内の学問振興に尽力。文化3 (1806) 年隠居してのちは,交遊のあった儒学者林述斎の指導を得て,文政4 (21) 年から『甲子夜話』を起草し,20年間にわたって正編 100巻,続編 100巻の大著を著わした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松浦静山」の解説

松浦静山 まつら-せいざん

1760-1841 江戸時代中期-後期の大名。
宝暦10年1月21日生まれ。父政信の早世で祖父松浦誠信(さねのぶ)の養子となり,安永4年肥前平戸藩(長崎県)藩主松浦家9代。「仕置帳」をさだめるなど統治体制を整備し,財政再建,新田開発,殖産興業に業績をあげた。文武を奨励し,藩校維新館を設立。天保(てんぽう)12年6月29日死去。82歳。名は清(きよし)。通称は英三郎。別号に雪洲,流水など。著作に「甲子(かっし)夜話」など。

松浦静山 まつうら-せいざん

まつら-せいざん

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松浦静山」の解説

松浦静山
まつうらせいざん

1760.1.20~1841.6.29

江戸中・後期の大名。肥前国平戸藩9代藩主。父は8代誠信(さねのぶ)の子政(まさし)。名は清。別号雲洲。壱岐守。1775年(安永4)家督相続。同年初入国し「訓戒十条」を開示して財政再建を推進。殖産興業・新田開発を奨励。藩校維新館,江戸に感恩斎文庫,平戸に楽歳堂文庫を創設。3万冊以上の和漢洋の書籍を収集。1806年(文化3)隠居。21年(文政4)随筆「甲子夜話(かっしやわ)」278巻を著す。

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百科事典マイペディア 「松浦静山」の意味・わかりやすい解説

松浦静山【まつらせいざん】

江戸後期の肥前(ひぜん)平戸藩主。名は清(きよし)。1775年襲封して藩政を改革。幼時から学を好み,藩校維新館を設立して教学を振興。隠退後,見聞を筆録して《甲子(かっし)夜話》を著す。

松浦静山【まつうらせいざん】

松浦(まつら)静山

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367日誕生日大事典 「松浦静山」の解説

松浦静山 (まつらせいざん)

生年月日:1760年1月20日
江戸時代中期;後期の大名
1841年没

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世界大百科事典(旧版)内の松浦静山の言及

【甲子夜話】より

…平戸藩主松浦(まつら)静山の随筆。1821年(文政4),静山62歳の11月甲子の日,静山邸を訪れていた親友林述斎のすすめによって,その夜から起筆したのが表題のゆえんである。…

【平戸藩】より

…肥前国(長崎県)北松浦郡平戸に藩庁を置いた外様中藩。藩主は松浦氏。6万1700石。松浦党に系譜をひく平戸松浦氏は,党の単位細胞である平戸党の結束を通じて在地領主として発展し,隆信(道可)の時代には,北松浦郡と壱岐国を領有する戦国大名に発展した。1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐後,本領を安堵されて近世大名となった。石高は6万3200石であったが,1664年(寛文4)4代藩主鎮信(しげのぶ)(天祥)のとき,従弟信貞に今福1500石を分知した。…

※「松浦静山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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