江戸時代の鐔工。名は重治。鉄砲工林清兵衛の次男として生まれる。はじめ重吉と名乗り,鉄砲工として加藤清正に仕えていたが,加藤家改易後,肥後熊本藩主となった細川忠利に抱えられ,鐔工に転じて肥後鐔を完成した。林一派は同国飽田郡春日村に住したので春日派ともいわれ,平田,西垣,志水の3家とともに肥後金工の四大派を形成したが,林家はその主流をなし,とくに又七は肥後金工の祖といわれている。又七の作風は鉄の鍛(きたえ)が抜群によく,美しい色合いを呈し,斬新で精緻な透彫と布目象嵌に大きな特色があり,実用性と装飾性をみごとに調和させている。透しの意匠化は,細川家の家紋である九曜紋に桜,遠見松,桐,竹,鶴,蕨手などが多い。代表作には〈桜九曜文透象嵌鐔〉〈破扇図象嵌鐔〉(ともに重文)がある。林一派は2代重光,3代藤八,4代重次,5代又平,6代又八,7代藤七と幕末まで連綿と続いた。
→彫金
執筆者:原田 一敏
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生没年未詳。江戸前期の装剣金工。肥後(熊本県)細川家の庇護(ひご)により栄えた「肥後金工」中の代表工の1人。尾張(おわり)出身の鉄砲工・清兵衛勝光(かつみつ)の次男で、名は重治(しげはる)。生年については1605年(慶長10)あるいは13年説、没年は1688年(元禄1)、91年、99年などの諸説がある。父は加藤清正に従って肥後に移住。加藤家改易後、細川家が肥後に入ると、又七は三斎忠興(さんさいただおき)により二十人扶持(ぶち)で抱えられ、装剣金具の制作に励んで肥後鐔(つば)を完成した。1647年(正保4)に同国春日(かすが)村に住したところから春日派の呼称がある。作品は鉄鐔(てつつば)を得意とし、鉄錆(さび)のよさに加えて金象眼(ぞうがん)の巧みさと精巧な透しに定評がある。重要文化財の「破扇(はせん)桜象眼鐔」「桜九曜文透象眼鐔」をはじめ、遠見松透、投桐(なげぎり)透、御紋透など透鐔の作が多い。又七を祖とした林一派は幕末まで連綿と続き、平田、西垣、志水の三家とともに肥後金工の四大派を形成し、その主流をなした。
[小笠原信夫]
(加島勝)
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