江戸初期の剣術家。柳生宗矩(むねのり)の長男。幼名七郎、通称の十兵衛の名で知られている。1607年(慶長12)大和(やまと)国柳生(奈良市)に生まれ、父にも勝る英武の資質に恵まれ、早くから新陰(しんかげ)流に通じ、19年(元和5)13歳のとき、将軍世子(せいし)徳川家光(いえみつ)の小姓となって出仕し、兵法稽古(けいこ)の相手として寵用(ちょうよう)されたが、26年(寛永3)家光の3代将軍就任を機会に致仕し、生国の柳生に帰って屏居(へいきょ)した。以後38年に御書院番としてふたたび出仕を許されるまで、約12年間の動静はすべて明らかといえないが、その大部分は敬慕してやまない祖父宗厳(むねよし)の門人・故老に接して、家法新陰流の研究や思索などに専念し、領民らの敬愛を集めたと伝えられる。その後年には、ときに江戸へ出て父の道場で研鑽(けんさん)を積み、僧沢庵(たくあん)に師事して心法の要諦(ようてい)を聴いたりしている。42年に完成した『月之抄』は、この時期において、流祖上泉秀綱(かみいずみひでつな)、祖父、父3代にわたる技法上、心法上の問題点を比較研究した成果を集大成した名著である。このほか『月見集』『武蔵野(むさしの)』などの著述も多く、講談の十兵衛旅日記や諸国隠密説などは、すべて十兵衛を英雄化した後世のフィクションである。46年(正保3)父の遺領のうち8300石を与えられて家督を継いだが、それからわずか4年後の慶安(けいあん)3年3月、領内の山城(やましろ)国(京都府)相楽(あいら)郡大河原(おおがわら)村弓ヶ淵に放鷹(ほうよう)中、心臓発作のため急逝した。行年44歳、法名は長厳院殿金甫宗剛大居士(ちょうごんいんでんきんぽそうごうだいこじ)という。
[渡辺一郎]
(前田英樹)
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