柳生三厳(読み)やぎゅうみつよし

精選版 日本国語大辞典 「柳生三厳」の意味・読み・例文・類語

やぎゅう‐みつよし【柳生三厳】

  1. 江戸前期の剣術家。宗矩の長子通称十兵衛。幼少より徳川家光に仕える。柳生新陰流を究めた。著に兵法書「月之抄」がある。慶長一二~慶安三年(一六〇七‐五〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「柳生三厳」の意味・わかりやすい解説

柳生三厳
やぎゅうみつよし
(1607―1650)

江戸初期の剣術家。柳生宗矩(むねのり)の長男。幼名七郎、通称の十兵衛の名で知られている。1607年(慶長12)大和(やまと)国柳生(奈良市)に生まれ、父にも勝る英武の資質に恵まれ、早くから新陰(しんかげ)流に通じ、19年(元和5)13歳のとき、将軍世子(せいし)徳川家光(いえみつ)の小姓となって出仕し、兵法稽古(けいこ)の相手として寵用(ちょうよう)されたが、26年(寛永3)家光の3代将軍就任を機会に致仕し、生国の柳生に帰って屏居(へいきょ)した。以後38年に御書院番としてふたたび出仕を許されるまで、約12年間の動静はすべて明らかといえないが、その大部分は敬慕してやまない祖父宗厳(むねよし)の門人・故老に接して、家法新陰流の研究や思索などに専念し、領民らの敬愛を集めたと伝えられる。その後年には、ときに江戸へ出て父の道場で研鑽(けんさん)を積み、僧沢庵(たくあん)に師事して心法の要諦(ようてい)を聴いたりしている。42年に完成した『月之抄』は、この時期において、流祖上泉秀綱(かみいずみひでつな)、祖父、父3代にわたる技法上、心法上の問題点を比較研究した成果を集大成した名著である。このほか『月見集』『武蔵野(むさしの)』などの著述も多く、講談の十兵衛旅日記や諸国隠密説などは、すべて十兵衛を英雄化した後世フィクションである。46年(正保3)父の遺領のうち8300石を与えられて家督を継いだが、それからわずか4年後の慶安(けいあん)3年3月、領内の山城(やましろ)国(京都府)相楽(あいら)郡大河原(おおがわら)村弓ヶ淵に放鷹(ほうよう)中、心臓発作のため急逝した。行年44歳、法名は長厳院殿金甫宗剛大居士(ちょうごんいんでんきんぽそうごうだいこじ)という。

[渡辺一郎]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳生三厳」の解説

柳生三厳 やぎゅう-みつよし

1607-1650 江戸時代前期の剣術家。
慶長12年生まれ。柳生宗矩(むねのり)の長男。父をしのぐ剣豪といわれ,徳川家光の小姓となるが,寛永3年致仕。再出仕まで12年間,大和(奈良県)柳生の里にもどり新陰流の研究に没頭した。正保(しょうほ)3年父の死で家督をつぐ。弟たちへの分知により旗本(8300石)となる。講談の「十兵衛旅日記」や幕府隠密説などは,後世のフィクション。慶安3年3月21日死去。44歳。通称は十兵衛。著作に「月之抄」。

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