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柳生三厳 やぎゅうみつよし

百科事典マイペディアの解説

柳生三厳【やぎゅうみつよし】

柳生十兵衛

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

柳生三厳 やぎゅう-みつよし

1607-1650 江戸時代前期の剣術家。
慶長12年生まれ。柳生宗矩(むねのり)の長男。父をしのぐ剣豪といわれ,徳川家光小姓となるが,寛永3年致仕。再出仕まで12年間,大和(奈良県)柳生の里にもどり新陰流の研究に没頭した。正保(しょうほ)3年父の死で家督をつぐ。弟たちへの分知により旗本(8300石)となる。講談の「十兵衛旅日記」や幕府隠密説などは,後世のフィクション。慶安3年3月21日死去。44歳。通称は十兵衛。著作に「月之抄」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

柳生三厳

没年:慶安3.3.21(1650.4.21)
生年:慶長12(1607)
江戸前期の剣術家。宗矩の長男として江戸に生まれる。名は十兵衛。江戸柳生家2代目として早くから新陰流の刀法に達し,客気に満ちた青年期を過ごした。また理論好きで,若年のうちに『月之抄』などの著述を行い,このことが父宗矩の不興を招いたと伝えられている。12歳で将軍徳川家光の小姓となったが,8年後に役を解かれ,諸国を巡り歩いた。父が没した正保3(1646)年,40歳のときに8300石を賜って柳生家の当主に就く。『月之抄』は,父の口伝にもとづき,新陰流の立ち会い上の理をかなり分析的に説いたもので,宗矩の不興はその述作の詳しすぎる点にあったとも考えられる。知行地内での鷹狩中に急死した。44歳の早世には変死説もある。<参考文献>今村嘉雄他編『日本武道全集』1巻

(前田英樹)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

柳生三厳
やぎゅうみつよし
(1607―1650)

江戸初期の剣術家。柳生宗矩(むねのり)の長男。幼名七郎、通称の十兵衛の名で知られている。1607年(慶長12)大和(やまと)国柳生(奈良市)に生まれ、父にも勝る英武の資質に恵まれ、早くから新陰(しんかげ)流に通じ、19年(元和5)13歳のとき、将軍世子(せいし)徳川家光(いえみつ)の小姓となって出仕し、兵法稽古(けいこ)の相手として寵用(ちょうよう)されたが、26年(寛永3)家光の3代将軍就任を機会に致仕し、生国の柳生に帰って屏居(へいきょ)した。以後38年に御書院番としてふたたび出仕を許されるまで、約12年間の動静はすべて明らかといえないが、その大部分は敬慕してやまない祖父宗厳(むねよし)の門人・故老に接して、家法新陰流の研究や思索などに専念し、領民らの敬愛を集めたと伝えられる。その後年には、ときに江戸へ出て父の道場で研鑽(けんさん)を積み、僧沢庵(たくあん)に師事して心法の要諦(ようてい)を聴いたりしている。42年に完成した『月之抄』は、この時期において、流祖上泉秀綱(かみいずみひでつな)、祖父、父3代にわたる技法上、心法上の問題点を比較研究した成果を集大成した名著である。このほか『月見集』『武蔵野(むさしの)』などの著述も多く、講談の十兵衛旅日記や諸国隠密説などは、すべて十兵衛を英雄化した後世のフィクションである。46年(正保3)父の遺領のうち8300石を与えられて家督を継いだが、それからわずか4年後の慶安(けいあん)3年3月、領内の山城(やましろ)国(京都府)相楽(あいら)郡大河原(おおがわら)村弓ヶ淵に放鷹(ほうよう)中、心臓発作のため急逝した。行年44歳、法名は長厳院殿金甫宗剛大居士(ちょうごんいんでんきんぽそうごうだいこじ)という。[渡辺一郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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