折立村(読み)おりたてむら

日本歴史地名大系 「折立村」の解説

折立村
おりたてむら

[現在地名]志津川戸倉とぐら

志津川湾の南西奥にあり、東から南は水戸辺みとべ村、西は松木まつき峠で横山北沢よこやまきたさわ(現津山町)、北は山中で入谷いりや村、黒崎くろさき志津川村と接する。慶長一六年(一六一一)スペインの使節セバスチャン・ビスカイノは、仙台領内沿岸部を測量しつつ航海し、一一月二五日「我等は海路此地を出で、大なる入江に至りて夜を過したり。入江の一端に折立と称する村あり」と志津川湾で一泊している。正保郷帳に折立宿と記され、田二四貫三九〇文・畑一七貫五六文とあり、ほかに同所新田一貫二八文がある。「安永風土記」によれば田二八貫二五一文・畑二〇貫四五文(うち茶畑五五一文)で、蔵入は二〇貫二〇四文、給所は二八貫九二文、人頭一九六人(うち寺二)のうち寛永一八年(一六四一)の竿答百姓七〇人、家数二〇〇(うち水呑二・借屋二)、男五六〇・女四九七、馬二〇八で、五太木舟一・さっぱ舟一・かっこ舟一二があった。


折立村
おりたてむら

[現在地名]湯之谷村下折立しもおりたて上折立かみおりたて

西は宇津野うつの村、東と北は山、南は折立又おりたてまた新田。なか村と南の栃尾又とちおまた、北の湯中居ゆなかいは枝村。年不詳の上田銀山草創記(星家文書)によると、上田うえだ銀山の開発は寛永一七年(一六四〇)当村百姓源蔵があかの川付近で銀石を発見したことを端緒とする。同一九年の会津百姓より訴状(目黒家文書)によると、当村ほか栃尾又大湯おおゆ芋川いもがわなどの村々九人の者は、只見ただみ川での鱒を会津側へ運上として納めている。


折立村
おりたちむら

[現在地名]設楽町三都橋みつはし

当貝津とうがいつ川と栗島くりしま川の合流点付近に、流域に沿って集落がある。慶長八年(一六〇三)の検地では四九石余を検出。栗島川上流の栗島村も同年に検地を受け、高三三石余。

内貝津うちがいつの津島神社は、正中元年(一三二四)作手つくで相月あいつき(現南設楽郡作手村)から分請し、永禄年中(一五五八―七〇)には田峯だみね城主菅沼刑部少輔・荒尾あらお城主菅沼伊豆守満直などの崇敬があったという。同社では一一月一七日に参候さんぞろ祭と称される田楽祭が行われる。参候とは神座と七福神との問答ことばである。祭事は塔の木とうのき観音堂の大般若経の読経と、十一面観音・津島神社の渡御の神事で始まる。


折立村
おりたてむら

[現在地名]岐阜市折立

黒野くろの村の東に位置し、伊自良いじら川と鳥羽とば川が合流しただん川が東境を流れる。本郷は黒野村に続く北西部にあり、南に遠く支郷三ッ又みつまたが位置。慶長郷帳および元和二年(一六一六)の村高領知改帳に村名がみえ、高九〇七石余。正保郷帳では田六九五石余・畑二〇四石余・紙桑木高七石余。初め加藤貞泰(黒野藩)領であったとみられるが、慶長一五年(一六一〇)石河光忠の領地となった(「徳川家康朱印状写」徳川林政史研究所蔵)


折立村
おりたてむら

[現在地名]白井町折立

所沢ところさわ村の北西、神崎かんざき川上流の支谷の先の台地上に位置。寛永二年(一六二五)知行宛行状に村名がみえ、当村二石などが旗本矢吹領となっている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高五九石余で、旗本伊吹・小俣・小野三氏の相給。検地は慶長七年(一六〇二)、再検地は天明四年(一七八四)代官宮村孫左衛門によって行われている(鈴木家文書)。文政一〇年(一八二七)の組合村書上(酒巻家文書)では旗本本目・小野・伊吹三氏、嘉永五年(一八五二)には旗本遠山氏も加わって四氏の相給(秋本家文書)。幕末には旗本伊吹領二石・本目領六二石余・小野領二石余であった(旧高旧領取調帳)


折立村
おりたてむら

[現在地名]美山町折立・赤谷あかだに

足羽川西岸にあり、川を隔てた東岸は横越よこごし村、やや下流に川原こうばら村がある。長承二年(一一三三)六月一四日付の官宣旨案(醍醐雑事記)に、藤原成通の所領川原郷内折立村がみえる。江戸時代は大野藩領。正保郷帳によれば田方九〇石余・畠方八三石余。「越前国名蹟考」は枝村として「折立上村・東赤谷・西赤谷」を記す。伝えによれば、当地は西方今立郡から乙谷おつだに坂を越えた降口にあたることから「おりたて」の名がでたという。


折立村
おりたてむら

[現在地名]野津町東谷ひがしだに 折立

奥畑おくばた村の南西、吉田よしだ川北西岸にある。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には折立村が奥畑村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高六七石余。下畑組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方六一石余・畑方六石余。


折立村
おりたちむら

[現在地名]十津川村大字折立

十津川筋、こみうえ村上流にある。十津川郷のうち。寛永郷帳には「追立村」と書かれ、村高二九・六二五石、幕府領元禄郷帳では村高一〇石となっている。安政四年(一八五七)の産物取調帳(十津川宝蔵文書)に杉角尺〆三〇〇本、檜角尺〆八〇本、椴栂松尺〆五〇本、樽丸三〇〇丸、炭五〇〇俵、楮六貫目、椎茸一〇貫目、割菜八〇貫目、椶櫚皮三〇〇枚、杉板六〇間とみえる。


折立村
おりたてむら

[現在地名]竹田市平田ひらた

折立川北岸にあり、南は柿木かきのき村。正保郷帳では長田ながた郷に属し、田方五一石余・畑方三九石余。弘化物成帳では平田組のうち、村位は上、免七ツ五分、田五六石余(五町一反余)・畑三四石余(四町九反余)・屋敷三石余(三反余)で、開田はほとんどなく、開畑八斗余(一町四反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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