デジタル大辞泉
「栗山大膳」の意味・読み・例文・類語
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くりやま‐だいぜん【栗山大膳】
- 江戸前期の筑前福岡藩の家老。名は利章。藩主黒田忠之の行状をいましめたが聞かれず、藩の取りつぶしをおそれて、幕府に上訴した。黒田騒動の主役として歌舞伎、講談、小説などに取りあげられて有名。天正一九~承応元年(一五九一‐一六五二)
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栗山大膳 (くりやまたいぜん)
生没年:1591-1652(天正19-承応1)
近世初頭の福岡藩家老。譜代の功臣利安の嫡子。黒田長政の遺命を受け,家老として藩主忠之を補佐したが,忠之は譜代功臣を退け,かつ軍船鳳凰丸の建造,足軽隊の増強など幕府をはばからない行為が多かった。主家の将来を憂えた大膳はこれを幕府に訴えることでかえって主家を安泰に導いた。大膳は南部藩に預けられたが,寛大な待遇を受けた。
→黒田騒動
執筆者:野口 喜久雄
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栗山大膳
くりやまだいぜん
[生]天正19(1591)
[没]承応1(1652).3.1. 盛岡
江戸時代初期,福岡藩 (黒田家) の首席家老。利安 (通称備後) の子。幼名は大吉,のち利章。元和3 (1617) 年,父のあとをうけて家老となり,同9年,藩主黒田長政の遺言により,子黒田忠之の治世を補佐した。しかし,忠之と意見が合わず,藩政が乱れた。大膳は幕府からの改易を恐れ,寛永9 (32) 年,藩主忠之に反逆の意志ありと幕府に訴え,同 12年,将軍家光の直裁により,忠之は叛意のないことが判明して除封を免れて謹慎,大膳は南部藩にお預けとなった。これがいわゆる黒田騒動で,藩主を訴えるという策によって,黒田藩を取りつぶしから擁護したといわれる。
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栗山大膳
没年:承応1.3.2(1652.4.10)
生年:天正19.1.22(1591.2.15)
江戸初期の武士。名は利章,初め五兵衛と称した。筑前福岡藩黒田家草創の功臣利安の子。豊前国中津(大分県)生まれ。元和3(1617)年父の跡を継いで福岡藩家老となり,2万石を領した。藩主黒田長政の死後その遺言で2代藩主忠之を補佐したが,主君としての資質に欠ける忠之と次第に対立し,迫害された。寛永9(1632)年謀反の企てを理由に忠之を幕府に訴え出たが,翌年幕府は将軍直々の裁決でその疑いはないとし,黒田家は本領安堵,大膳は陸奥国盛岡藩(岩手県)に預けられ,その地で没した。これがいわゆる黒田騒動で,『御伽譚博多新織』(1852)として歌舞伎化された。
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栗山大膳【くりやまだいぜん】
江戸初期,筑前(ちくぜん)福岡藩の筆頭家老。黒田騒動の中心人物。黒田長政の遺命で藩主忠之を補佐。しかし忠之に幕府をはばからない行為が多かったため,大膳は先んじて忠之を幕府に訴え,主家の安泰を図った。騒動後,大膳は陸奥(むつ)盛岡藩に預けられたが,厚遇されたという。
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栗山大膳 くりやま-たいぜん
1591-1652 江戸時代前期の武士。
天正(てんしょう)19年1月12日生まれ。栗山利安(としやす)の子。筑前(ちくぜん)福岡藩家老。初代藩主黒田長政の遺言により2代忠之を補佐するが,しだいに対立。藩主の不行跡による藩取りつぶしをおそれ,寛永9年(1632)忠之を謀反容疑で幕府にうったえる。将軍徳川家光の裁定で,藩は存続したが,大膳は盛岡藩に身柄をあずけられた(黒田騒動)。慶安5年3月2日死去。62歳。名は利章。
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栗山大膳
くりやまだいぜん
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 初演
- 明治39.1(京都・歌舞伎座)
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
栗山大膳 (くりやまたいぜん)
生年月日:1591年1月22日
江戸時代前期の武士;筑前福岡藩家老
1652年没
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世界大百科事典(旧版)内の栗山大膳の言及
【黒田騒動】より
…1623年(元和9)藩主となった忠之は孝高(よしたか)(如水),長政の代からの譜代の功臣を退けて倉八十太夫らの側近を重用,そのうえ,軍船鳳凰丸の建造,足軽隊の増強など幕令をはばからぬ行為が多かった。家老[栗山大膳](譜代功臣利安の嫡子)はしばしば忠之をいさめたが,忠之はかえって大膳を亡きものにせんとしたので,32年(寛永9)大膳は豊後府内藩主竹中采女正とともに江戸にのぼり,忠之に謀反の心あるの旨を幕府に訴え出た。翌年,幕府は忠之および大膳らを尋問,その結果,忠之は謀反の意志はないとして許され,大膳は盛岡藩にお預けとなった。…
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