栗山孝庵(読み)くりやまこうあん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「栗山孝庵」の意味・わかりやすい解説

栗山孝庵
くりやまこうあん
(1728―1791)

江戸中後期解剖医。幸庵とも書く。長門(ながと)国(山口県)萩(はぎ)藩医栗山孝庵之経の三男。幼名は左内、通称を玄室・玄慶、字(あざな)は文仲。献臣・大隠斎と号す。1741年(寛保1)家督相続。1748年(寛延1)京に上り山脇東洋(やまわきとうよう)に入門、業なって帰郷。その後長崎遊学、中国語および蘭(らん)医学を修得したが、この時期に蘭書の人体解剖図をみて和漢の内景説に疑問を抱いた。1758年(宝暦8)萩藩最初の男体解屍(かいし)を、1759年日本初の女体と生殖器の解剖を行い、師山脇東洋に報告した。1767年(明和4)より藩主2代の御側(おそば)医を勤め、1769年からしばしば参勤交代随行田村藍水(らんすい)、平賀源内杉田玄白らと親交を結んだ。1787年(天明7)に養孫玄厚の解屍を指導した。墓所は萩市保福寺。

[末中哲夫]

『田中助一著『防長医学史 下』(1953・同書刊行後援会/合本複製・1984・聚海書林)』『日本学士院日本科学史刊行会編『明治前日本医学史1』(1955・日本学術振興会/複製増訂版・1978・日本古医学資料センター)』

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朝日日本歴史人物事典 「栗山孝庵」の解説

栗山孝庵

没年:寛政3.11.15(1791.12.10)
生年享保13(1728)
江戸中期の医者。長州(萩)藩医栗山孝庵之経の3男として萩に生まれる。名は献臣,通称は左内,玄室,のち父の名孝庵を継いだ。儒学を萩明倫館学頭の山根華陽に,医学を京都で山脇東洋に学び,下関出身の永富独嘯庵と共に門下の双璧となった。宝暦4(1754)年に東洋がわが国最初の人体解剖を行って図譜を刊行したことに刺激を受け,8年にわが国で2番目の人体解剖を行い東洋に報告した。次いで翌9年にはわが国初の女体解剖を行って再び東洋に報告した。その後は名声も高くなり,長州藩主毛利重就・治親父子の侍医となった。天明7(1787)年,養孫の幸庵(景範)らのために3度目の解剖を行った。書を能くし,和歌をたしなみ,杉田玄白,平賀源内らとも親しく交わった。<著作>『文仲漫筆』『尚古閣方函』<参考文献>田中助一『防長医学史』

(田中助一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「栗山孝庵」の意味・わかりやすい解説

栗山孝庵 (くりやまこうあん)
生没年:1731-93(享保16-寛政5)

江戸中・後期の漢蘭折衷派医。長門国萩の出身。萩藩医。名は献臣,字は文仲。儒を山根華陽,古医方を山脇東洋に学び,長崎に遊学してオランダ医学を修めた。山脇東洋の解剖に刺激されて,1758年(宝暦8)萩で男体解剖,翌年には日本最初の女体解剖を医師の執刀下に行い,それぞれ解剖図を記録した。さらに87年(天明7)養孫幸庵(玄厚)のために第3回の解剖を行っている。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「栗山孝庵」の解説

栗山孝庵 くりやま-こうあん

1728-1791 江戸時代中期の医師。
享保(きょうほう)13年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩藩医。京都で山脇東洋に師事し,長崎でオランダ医学をまなぶ。宝暦8年(1758)日本で2番目に男性死体の解剖を,翌9年日本ではじめて女性死体の解剖をおこなった。寛政3年11月15日死去。64歳。名は献臣。字(あざな)は文仲。通称は幸庵ともかく。

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