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宮崎滔天 みやざきとうてん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宮崎滔天
みやざきとうてん

[生]明治3(1870).12.3. 熊本,荒尾
[没]1922.12.6. 東京
志士。本名は虎蔵 (寅蔵) 。西南戦争で熊本協同隊を率いた宮崎八郎の弟。徳富蘇峰大江義塾,東京専門学校に学び,小崎弘道のもとで受洗犬養毅を通じて孫文と交わった。頭山満らと中国革命を積極的に援助し,恵州の挙兵計画にも参加,またエミリオ・アギナルドのフィリピン独立運動をも支援。 1905年東京における中国人留学生の革命組織中国革命同盟会結成に尽力し,孫文の委嘱でその日本全権委員になった。 1911年辛亥革命が起こるとこれに参加,孫文の南京政府樹立を助け,第2次,第3次の革命も支援。その死にいたるまで中国革命を支持し続けた。自伝『三十三年之夢』『革命評論』などがある。

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デジタル大辞泉の解説

みやざき‐とうてん〔‐タウテン〕【宮崎滔天】

[1871~1922]中国革命の協力者。熊本の生まれ。本名、寅蔵。亡命中の孫文と知り合い、その革命運動を支援した。著「三十三年之夢」など。

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百科事典マイペディアの解説

宮崎滔天【みやざきとうてん】

中国革命運動の援助者。名は寅蔵。熊本県の生れ。兄の八郎,民蔵,弥蔵らは民権家・志士。徳富蘇峰の大江義塾に学ぶ。犬養毅の知遇を得て中国革命運動事情を調査。1897年来日中の孫文を知り,1905年黄興(こうこう)と孫文を引合せて中国同盟会結成に尽力。
→関連項目荒尾[市]内田良平全国民衆党ポンセ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宮崎滔天 みやざき-とうてん

1871*-1922 明治-大正時代の中国革命運動の協力者。
明治3年12月3日生まれ。宮崎八郎,宮崎民蔵の弟。大江義塾などでまなぶ。3兄弥蔵の志をついで孫文の革命運動を支援,明治33年の恵州挙兵の失敗後一時浪曲師となる。38年中国同盟会(国民党の母体)の結成をうながし,44年の辛亥(しんがい)革命以後も一貫して孫文を支持した。大正11年12月6日死去。53歳。肥後(熊本県)出身。名は虎蔵。自伝に「三十三年之夢」。
【格言など】余や先天的自由民権家なり(「三十三年之夢」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

宮崎滔天

没年:大正11.12.6(1922)
生年:明治3.12.3(1871.1.23)
明治大正期の中国革命運動家。本名虎蔵(通称寅蔵),白浪庵滔天と号す。肥後国玉名郡荒尾村(熊本県荒尾市)の郷士宮崎長蔵,佐喜の8男。自由民権の先駆者だった兄八郎の衣鉢を継ぐべく育てられ,明治18(1885)年徳富蘇峰の大江義塾に入る。19年春上京,東京専門学校(早稲田大学)英学部に学ぶ。20年春キリスト教入信,同年秋帰郷後も熊本英学校,長崎カブリ英和学校などで宗教による救世の道を模索した。しかし兄民蔵の土地復権主義や無政府主義思想の影響などで22年4月に棄教,すぐ上の兄弥蔵が抱く中国革命主義(中国にアジア民衆の理想の国を築いて欧米帝国主義に対抗,万人平等をめざす世界革命の根拠地とする思想)に傾倒し,25年5月まず上海に渡航。次いで兄弟分業の策を立て,兄は日本国籍を脱して中国人になりきるため横浜の清国人商店に入り,弟は移民を率いてシャム(タイ)に赴くなどしたが,弥蔵は29年7月病没。30年犬養毅の知遇を得て中国の革命結社調査に従う。帰国後,亡命中の孫文と横浜で邂逅。孫の共和主義,アジアを蚕食する列強への憤り,人類同胞思想など,ことごとくが滔天自身の思想と合致した。以後孫の革命運動の絶対的支持者として活躍,フィリピン独立運動に武器を輸送するなどして援助し,英領シンガポールで入獄,香港からは追放される。1900年の恵州蜂起の失敗後,一時は桃中軒牛右衛門と名乗り,浪花節で民衆に窮民革命の精神を鼓吹しようとした。38年,東京で孫文と黄興の提携による中国同盟会の結成に尽力,翌年には中国・ロシアの革命運動支援を訴える『革命評論』を発刊した。1911年の辛亥革命以降も一貫して中国革命に無私の献身を続けたその業績は,晩年の文筆活動をふくめ中国からも高く評価されている。<著作>『宮崎滔天全集』全5巻

(上村希美雄)

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大辞林 第三版の解説

みやざきとうてん【宮崎滔天】

1871~1922) 中国革命の援助者。熊本県生まれ。本名は寅蔵。来日中の孫文らと交わり、中国革命同盟会の結成を援助。辛亥革命後中国に渡り革命運動を支援した。著「三十三年之夢」「革命評論」ほか。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宮崎滔天
みやざきとうてん
(1871―1922)

中国革命の協力者。明治3年12月3日、熊本県荒尾の郷士の家に生まれる。本名寅(虎)蔵。西南戦争で西郷軍に加わって戦死した熊本民権党の八郎、土地復権同志会の民蔵(たみぞう)、「支那(しな)革命」主義者の弥蔵(やぞう)を兄にもち、気丈な母に育てられた。徳富蘇峰(とくとみそほう)の大江義塾に学んだが、1886年(明治19)出京、東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)に学びキリスト教に入信。長崎のミッションスクールに転学後、スウェーデン籍の老無政府主義者イサク・アブラハムに感化されて棄教。弥蔵の影響で中国革命運動援助を志す。亡命中の孫文と知り合い、終生親交を結び、日本での活動を援助した。1900年(明治33)10月、孫文は2回目の挙兵を決行したが失敗した(恵州事件)。その際、滔天は武器調達に奔走したが、代議士中村弥六の背任によって不成功に終わり、日本人同志間の内訌(ないこう)から浪曲師へ転身、「落花の歌」などを演じた。02年に半生の自叙伝『三十三年の夢』を刊行、日本のみならず中国にも多数の愛読者を得た。05年の中国同盟会設立にも尽力。その後同志と発行した雑誌『革命評論』(1906~07)で世論の喚起に努め、中国人留学生の援助などを訴えた。晩年は『上海(シャンハイ)日日新聞』での文筆活動に従事したが不遇であった。大正11年12月6日、51歳で病没。竜介(りゅうすけ)は長男。[滝澤民夫]
『宮崎龍介他編『宮崎滔天全集』全5巻(1971~76・平凡社)』

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世界大百科事典内の宮崎滔天の言及

【黄興】より

…主として軍事学を学ぶとともに,軍国民教育会等の反清革命組織を結成し,翌年長沙に帰って華興会,同仇会(会党との連絡組織)を組織した。04年,蜂起に失敗して日本に逃げ,宮崎滔天にめぐりあった。翌年,滔天を介して来日した孫文と対面し,協力して中国同盟会を創立,ナンバー2の地位に就いた。…

【興中会】より

…孫文はまた,会党の哥老会,三合会を糾合して興漢会を作り,戦力強化をはかった。05年8月,宮崎滔天の斡旋で孫文と黄興の握手が実現し,興中会も,中国同盟会へと発展的解消をとげた。【藤本 博生】。…

【大アジア主義】より

…岡倉天心は,汚辱に満ちたアジアが本性に立ち戻る姿を〈アジアは一つ〉と言い表し,美の破壊者としての西欧的なものを排斥すべきものとした。宮崎滔天は,終始一貫した同情と犠牲的精神をもって中国の革命に尽力した。 しかし,このようにさまざまな側面をもっていた大アジア主義も,自由民権の衰退,国家機構の整備,清やロシアに対する軍備拡張の過程でしだいにアジアへの侵略へと収斂(しゆうれん)されていった。…

【中国】より

…やがて大勢は,侵略に抵抗するための侵略,という大義名分に滔々として流れてゆく。だが中国の生れ変わりに協力し,中国を真に強くすることによって連帯を実現しようとした宮崎滔天のような人も,やはりいたのである。 要するに中国は日本にとって,愛憎二面的な対象である。…

【宮崎虎蔵】より

…号は白浪庵滔天(とうてん)。宮崎滔天の呼称でも知られる。父は郷士の長蔵,母は佐喜,長兄は八郎,ほかに民蔵・弥蔵の兄がいる。…

※「宮崎滔天」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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