桐竹紋十郎(読み)キリタケモンジュウロウ

デジタル大辞泉 「桐竹紋十郎」の意味・読み・例文・類語

きりたけ‐もんじゅうろう〔‐モンジフラウ〕【桐竹紋十郎】

文楽人形遣い
(初世)[1847?~1910]大坂の生まれ。本名、小林福太郎桐竹門十郎の子。父の名跡門十郎を継いだが、のち紋十郎と改めた。女形遣いの名手
(2世)[1900~1970]大阪の生まれ。本名、磯川佐吉。前芸名、蓑助。吉田文五郎の門に入り、抜擢されて、昭和2年(1927)2代目を襲名。女形遣いの名手。革新的で新作などにも意欲をみせた。

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精選版 日本国語大辞典 「桐竹紋十郎」の意味・読み・例文・類語

きりたけ‐もんじゅうろう‥モンジフラウ【桐竹紋十郎】

  1. 初世。文楽の人形遣い。桐竹門十郎の子。大坂の人。江戸で修業し、大坂に戻って文楽座にはいる。派手な芸風で、明治期の代表的人形遣い。女形を得意とした。明治四三年(一九一〇)没。

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「桐竹紋十郎」の解説

桐竹 紋十郎(2代目)
キリタケ モンジュウロウ


職業
文楽人形遣い

専門
人形浄瑠璃

肩書
重要無形文化財保持者(人形浄瑠璃文楽・人形)〔昭和40年〕

本名
磯川 佐吉(イソガワ サキチ)

別名
前名=吉田 小文,吉田 文昇,吉田 簑助(2代目)(ヨシダ ミノスケ)

生年月日
明治33年 11月20日

出生地
大阪府 堺市

経歴
明治42年9月3代目吉田文五郎に師事、吉田小文と名乗った。同年11月堀江座に初出演。大正4年文楽座へ移り、7年2代目吉田簑助を襲名。昭和2年2代目紋十郎を襲名、政岡、お園、静御前など女形を得意とし、勘平、治兵衛など立役もよくした。23年文楽に労働組合が結成され日映演大阪支部委員長に選出。24年文楽が2派に分裂、のちの三和会会長として保守派の因会と対立、松竹資本を離れ小劇場や地方巡演などを行い、カナダ、アメリカ、ヨーロッパ公演にも参加、文楽の普及に努めた。また木下順二作「瓜子姫とアマンジャク」や有吉佐和子の「ほむら」など現代語による実験上演も試みた。40年人間国宝に認定され、44年文化功労者。女形遣いの第一人者で、派手で観客の目をひく動きと、華麗で艶やかな芸風は文楽の華であった。代表作に「壇浦兜軍記」の阿古屋、「艶容女舞衣」のお園、「生写朝顔話」の深雪、「義経千本桜」の静御前、「伽羅先代荻」の政岡など。著書に「文楽の人形と三味線」(共著)がある。

受賞
芸術選奨〔昭和31年〕,文化功労者〔昭和44年〕 紫綬褒章〔昭和32年〕 芸術祭賞〔昭和24年〕

没年月日
昭和45年 8月21日 (1970年)

家族
息子=藤間 紋寿郎(日本舞踊家)

伝記
書くこと―出家する前のわたし 瀬戸内 寂聴 著(発行元 河出書房新社 ’90発行)


桐竹 紋十郎(初代)
キリタケ モンジュウロウ


職業
文楽人形遣い

本名
小林 福太郎

別名
前名=桐竹 亀松,桐竹 門十郎(2代目)

生年月日
弘化2年 2月

出生地
摂津国(大阪府)

経歴
13歳で3代目吉田辰造に入門、辰三郎を名乗ったが、18歳の時大坂を離れて信州、江戸で修業。明治9年文楽座に帰り、桐竹亀松、門十郎を名乗る。翌10年祖父の名義紋十郎を復活。もとは立役遣いだったが、文楽座に戻ってからは女形遣いとなり、政岡、玉手、お園、お三輪などを得意とし、初代吉田玉造と並んで明治期の文楽人形遣いの代表的存在であった。

没年月日
明治43年 8月15日 (1910年)

家族
父=桐竹 門十郎(初代)

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改訂新版 世界大百科事典 「桐竹紋十郎」の意味・わかりやすい解説

桐竹紋十郎 (きりたけもんじゅうろう)

文楽人形遣い。(1)初世(1845-1910・弘化2-明治43) 本名小林福太郎。幕末の名手,初世桐竹門十郎の子で若くして親元を離れ,信州や江戸で修業した。文楽座に復帰して桐竹亀松を継ぎ,1876年門十郎を名のったが故あって紋十郎と改めた。女方の名手として《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》の政岡,《恋女房染分手綱》の重の井,《艶姿女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)(酒屋)》のお園などを得意としたが,本来は立役であったという。生年については1841年(天保12)という説もある。(2)2世(1900-70・明治33-昭和45) 本名磯川佐吉。堺市出身。9歳で4世吉田文五郎(難波掾)に入門,小文を名のり,師の前名簑助をへて紋十郎を襲名した。師匠譲りの華麗な芸で若くして女方遣いの人気者となった。第2次世界大戦後の二派分裂時代には三和(みつわ)会(組合派)の総帥として一座を統率,《鏡獅子》《娘道成寺》や新作物をも意欲的に上演した。また,後継者の育成に力を入れて多くの逸材を世に出した。1965年重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定され,69年に文化功労者に選ばれた。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「桐竹紋十郎」の解説

桐竹 紋十郎(2代目)
キリタケ モンジュウロウ

大正・昭和期の文楽人形遣い



生年
明治33(1900)年11月20日

没年
昭和45(1970)年8月21日

出生地
大阪府堺市

本名
磯川 佐吉

別名
前名=吉田 小文,吉田 文昇,吉田 簑助(2代目)

主な受賞名〔年〕
芸術祭賞〔昭和24年〕,芸術選奨〔昭和31年〕,文化功労者〔昭和44年〕

経歴
明治42年9月吉田文五郎に師事、吉田小文と名乗った。同年11月堀江座に初出演。大正4年文楽座へ移り、7年2代目吉田簑助を襲名。昭和2年2代目紋十郎を襲名、政岡、お園、静御前など女形を得意とし、勘平、治兵衛など立役もよくした。23年文楽に労働組合が結成され日映演大阪支部委員長、続いて三和会を組織、会長として保守派の因会と対立、松竹資本を離れ小劇場や地方巡演などを行い、カナダ、アメリカ、ヨーロッパ公演にも参加、文楽の普及に努めた。また木下順二作「瓜子姫とアマンジャク」や有吉佐和子の「ほむら」など現代語による実験上演も試みた。40年重要無形文化財保持者に指定され、44年文化功労者。著書に「文楽の人形と三味線」(共著)がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「桐竹紋十郎」の意味・わかりやすい解説

桐竹紋十郎
きりたけもんじゅうろう

文楽(ぶんらく)人形遣い。

初世(1845/1847―1910)本名小林福太郎。幕末の立役(たちやく)遣いの立者(たてもの)であった桐竹門十郎の子として大坂に生まれる。13歳で3世吉田辰造に入門、辰三郎を名のったが、18歳のとき大坂を離れて信州、江戸で修業、1876年(明治9)大阪に帰り文楽座に入り桐竹亀松を名のる。まもなく父の名跡門十郎を継いだが、一部の反対で亀松に戻り、翌1877年に紋十郎と改名した。もともと立役遣いであったが、文楽座に帰ってから女方遣いになり、政岡(まさおか)、板額(はんがく)、玉手(たまて)、戸無瀬(となせ)、お園、お絹、お三輪などを得意とし、はでな芸風で人気を集め、初世吉田玉造と並んで明治期の文楽人形遣いの代表的存在であった。

2世(1900―1970)本名磯川佐吉。大阪府堺(さかい)市に生まれる。9歳で3世吉田文五郎に入門、小文を名のる。その後一時師匠のもとを去り非文楽系で働いたがまもなく復帰。1915年(大正4)2世吉田簑助(みのすけ)を襲名、1927年(昭和2)2世紋十郎襲名、若手女方遣いとして人気を得た。1949年、文楽の二派分裂では三和会(みつわかい)(組合派)の総帥となり、弁慶などの立役にも芸域を広げた。1965年(昭和40)重要無形文化財保持者に認定、1969年文化功労者。阿古屋(あこや)、政岡、玉手、お園など、はでな動きに内面の深さを加えた晩年の芸は戦後文楽の一つの頂点であった。

[山田庄一 2018年7月20日]

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朝日日本歴史人物事典 「桐竹紋十郎」の解説

桐竹紋十郎(初代)

没年:明治43.8.15(1910)
生年:弘化2?(1845)
明治期を代表する文楽人形の女形遣いの名手。本名小林福太郎。桐竹門十郎の子。3代目吉田辰造に入門して辰三郎と名乗り,13歳で大坂御霊の芝居初舞台を踏んだが,18歳のときに大坂を出て旅回りのあと江戸へ行き薩摩座の3代目西川伊三郎に付いて修業,明治9(1876)年に文楽座に帰り父の名跡の門十郎を継いだ。しかし他からの抗議により紋十郎と改める。最初は立役を遣ったがのちに女形に変わり,派手な芸風で人気を集めた。得意の役は「伽羅先代萩」の政岡,「仮名手本忠臣蔵」の戸無瀬,「艶容女舞衣」(「酒屋」)のお園,「妹背山婦女庭訓」のお三輪など。雑誌『歌舞伎』40号に「重の井子別れ」の型の記録がある。<著作>『桐竹紋十郎手記』(未刊随筆百種12巻)<参考文献>『義太夫年表/明治篇』

(山田庄一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「桐竹紋十郎」の意味・わかりやすい解説

桐竹紋十郎(2世)
きりたけもんじゅうろう[にせい]

[生]1900.11.20. 大阪,堺
[没]1970.8.21. 大阪
文楽人形遣い。本名磯川佐吉。吉田文五郎の門弟。前名吉田簑助から 1927年2世襲名。 1948~63年に三和 (みつわ) 会を主宰。 1965年重要無形文化財保持者に認定,1969年文化功労者。女方遣いの名手。新作物にも意欲を示した。あたり役は玉手御前,八重垣姫など。

桐竹紋十郎(1世)
きりたけもんじゅうろう[いっせい]

[生]弘化2(1845)?
[没]1910.8.15.
文楽の人形遣い。本名小林福太郎。桐竹紋 (門) 十郎の子。1世吉田玉造とともに,明治期の人形遣いの代表的名手。派手な芸風で,女方遣いとして名高い。当り役は静御前など。

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百科事典マイペディア 「桐竹紋十郎」の意味・わかりやすい解説

桐竹紋十郎【きりたけもんじゅうろう】

文楽人形遣。初世〔1845-1910〕は明治時代の代表的な女方遣。2世〔1900-1970〕は3世吉田文五郎門下で,1927年紋十郎を襲名。1947年因(ちなみ)会を離れ三和(みつわ)会を組織。新作を手がけたり長唄舞踊をとり入れるなど新しい分野の開拓も試みた。女方遣を得意とし,派手な芸風であった。1965年人間国宝。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桐竹紋十郎」の解説

桐竹紋十郎(2代) きりたけ-もんじゅうろう

1900-1970 大正-昭和時代の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣(つか)い。
明治33年11月20日生まれ。3代吉田文五郎に師事。2代吉田簑助(みのすけ)をへて,昭和2年2代紋十郎を襲名。戦後三和(みつわ)会をひきい,女方,立役(たちやく)の双方をこなし,文楽座の中心として活躍した。40年人間国宝。44年文化功労者。昭和45年8月21日死去。69歳。大阪出身。本名は磯川佐吉。

桐竹紋十郎(初代) きりたけ-もんじゅうろう

1845-1910 明治時代の人形浄瑠璃(じょうるり)の人形遣い。
弘化(こうか)2年2月生まれ。桐竹門十郎の子。3代吉田辰造に入門。江戸で修業したあと大坂にもどり,桐竹亀松の名で文楽座に出演。明治9年門十郎を襲名し,翌年紋十郎と改名。女方遣いの派手な芸風で知られた。明治43年8月15日死去。66歳。本名は小林福太郎。

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367日誕生日大事典 「桐竹紋十郎」の解説

桐竹 紋十郎(2代目) (きりたけ もんじゅうろう)

生年月日:1900年11月20日
大正時代;昭和時代の人形浄瑠璃の人形遣い
1970年没

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世界大百科事典(旧版)内の桐竹紋十郎の言及

【人形浄瑠璃】より

…しかし,84年,群小の人形芝居小屋が合同して,前年の内紛によって文楽座から脱退した三世竹本大隅太夫,二世豊沢団平らを擁し,大阪の中心地船場博労町に彦六座を開場した。一方,文楽座も,同年,小屋を彦六座の近くの船場平野町御霊神社境内に移し,御霊文楽座と名乗って,二世竹本越路大夫(のちの竹本摂津大掾)を中心に七世竹本津太夫,五世豊沢広助,初世吉田玉造,初世桐竹紋十郎らの陣容を整え,これに対抗した。こうして,両座が競合する明治期の大阪人形浄瑠璃の黄金時代が現出する。…

※「桐竹紋十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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