改訂新版 世界大百科事典 「小浜藩」の意味・わかりやすい解説
小浜藩 (おばまはん)
若狭国小浜に居城を置いた譜代中藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦のとき西軍に属した木下勝俊が除封され,そのあとに近江大津城主であった京極高次が入部し,若狭一国8万5000石を領した。翌年,高次は近江国高島郡のうちにおいて7000石を加増され,ついで高次の子忠高は,24年(寛永1)越前国敦賀郡2万1000石を加増され,領地高は合計11万3500石となった。高次は,守護武田氏以来の後瀬山城を小浜(雲浜)に移し,小浜城下の町割りを行った。京極氏による若狭支配は2代で終わり,34年忠高は出雲松江に転封,そのあとへ老中の要職にあった酒井忠勝が武蔵川越10万石から,京極氏の所領をそのまま受け継ぐかたちで入部した。翌々年,忠勝は在府料として下野国安蘇・都賀両郡内で1万石を加増されるが,この所領は忠直のとき,下野国安蘇郡と安房国平郡内に移された。忠勝のあと酒井氏は,忠直,忠隆,忠囿(ただその),忠音,忠存(ただあきら),忠用,忠与(ただよし),忠貫,忠進(ただゆき),忠順,忠義(ただあき),忠氏,忠禄(ただとみ)(忠義再封)と13代,238年にわたって在封した。
藩領は,《寛文印知集》によれば,若狭国大飯郡47ヵ村,同遠敷郡111ヵ村,同三方郡56ヵ村,越前国敦賀郡59ヵ村,近江国高島郡内15ヵ村,下野国安蘇郡内5ヵ村,安房国平郡内19ヵ村で構成されていた。その後,68年(寛文8)忠直のとき,甥の忠国に1万石(安房勝山藩),82年(天和2)忠隆のとき,弟忠稠(ただしげ)に1万石(越前鞠山(まりやま)藩)を分封したことによって,領地高は10万3500石となった。京都所司代として,公武融和政策のなかで和宮降嫁に奔走した13代忠義は,1862年(文久2)1万石を加増されたが,所司代罷免とともに加増分1万石は減封された。
藩政組織は,藩主のもとに城代・年寄・用人が置かれ,藩中枢部を構成した。城下小浜と要港敦賀には町奉行が,また各郡の拠点である和田(大飯郡)・熊川(上中郡)・佐柿(三方郡)には奉行が置かれた。在方の支配は,各郡1名の郡奉行と2名の代官によって行われた。家臣の数は,時代によって増減を見せるが,1667年346人であった。また,家臣の知行形態は,若狭入国にあたって地方知行から俸禄制へ切り替えられ,その結果,行政裁判権・年貢収納権は藩庁の手に集中された。
幕末には,幕府の命によって沿岸警備の体制をととのえ,領内各所に台場を設けた。1864年(元治1)水戸浪士の一隊が領内に入ったため,加賀藩など十数藩とともにその鎮圧にあたった(天狗党の乱)。68年(明治1)の鳥羽・伏見の戦では,旧幕軍に属し,薩摩・土佐の軍と戦って敗れ,敗走途中,山陰道鎮撫総督に下ったが,朝廷への陳謝が聴許され,忠氏は北陸道鎮撫使先鋒として従軍。忠氏隠居のあと,忠義が忠禄と改名して藩主となり,69年版籍を奉還し,藩知事となった。70年鞠山藩を合併し,71年廃藩。
執筆者:藤井 譲治
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