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小浜藩 おばまはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小浜藩
おばまはん

江戸時代,若狭国 (福井県) 遠敷 (おにう) 郡小浜地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後京極高次若狭1国と近江 (滋賀県) 高島郡9万 2000石を領し,寛永1 (1624) 年加増により 11万 3500石となり,小浜城を築いたが同 11年出雲 (島根県) 松江へ転じ,代って酒井忠勝が同じ石高で入封,以後,廃藩置県まで存続。酒井氏は譜代,江戸城帝鑑間詰。

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百科事典マイペディアの解説

小浜藩【おばまはん】

若狭(わかさ)国小浜に藩庁をおいた譜代(ふだい)藩。藩主は京極氏のあと,1634年酒井忠勝(ただかつ)が入封。以降酒井氏が在封。領知高約8万5000石〜12万3000石。
→関連項目塩津蓑虫騒動若狭国

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

おばまはん【小浜藩】

江戸時代若狭(わかさ)国遠敷(おにゅう)郡小浜(現、福井県小浜市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩。藩校は順造館。若狭は戦国時代後期から丹羽長重(にわながしげ)、次いで浅野長政(あさのながまさ)が領有、1594年(文禄3)に浅野氏は甲斐(かい)国に転じ、若狭は木下勝俊(かつとし)・利房(としふさ)兄弟が分封(ぶんぽう)した。しかし、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで西軍に与した木下氏は除封され、近江(おうみ)国大津城主だった京極高次(きょうごくたかつぐ)が若狭1国8万5000石で入封した。翌年近江国高島郡に7000石加増、子の忠高(ただたか)のときの24年(寛永(かんえい)1)には越前(えちぜん)国敦賀(つるが)郡に2万1000石加増となり、11万3500石となった。京極氏の若狭支配は2代で終わり、34年に出雲(いずも)国松江藩に転封(てんぽう)(国替(くにがえ))、代わって譜代で老中酒井忠勝(ただかつ)武蔵(むさし)国川越藩から11万3500石で入った。以後明治維新まで酒井氏13代が続いた。36年には下野(しもつけ)国でも1万石加増され、12万3500石となった。忠勝は38年に大老となって3代将軍徳川家光(いえみつ)をささえた。その後も歴代藩主は幕府要職を勤めた。領地高は68年(寛文(かんぶん)8)と82年(天和(てんな)2)に分封があり、以後幕末まで10万3500石だった。1871年(明治4)の廃藩置県で小浜県となり、その後、敦賀県を経て81年再置の福井県に編入された。

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世界大百科事典 第2版の解説

おばまはん【小浜藩】

若狭国小浜に居城を置いた譜代中藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦のとき西軍に属した木下勝俊が除封され,そのあとに近江大津城主であった京極高次が入部し,若狭一国8万5000石を領した。翌年,高次は近江国高島郡のうちにおいて7000石を加増され,ついで高次の子忠高は,24年(寛永1)越前国敦賀郡2万1000石を加増され,領地高は合計11万3500石となった。高次は,守護武田氏以来の後瀬山城を小浜(雲浜)に移し,小浜城下の町割りを行った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小浜藩
おばまはん

若狭(わかさ)国(福井県)遠敷(おにゅう)郡小浜に置かれた藩。1587年(天正15)浅野長政(ながまさ)が若狭一国の領主として入封。1594年(文禄3)浅野氏は甲斐(かい)に転じ、若狭は木下勝俊(かつとし)(6万2000石)、その弟利房(としふさ)(2万石)に分封。1600年(慶長5)京極高次(きょうごくたかつぐ)が関ヶ原の戦いで東軍に属し、その戦功により近江(おうみ)の大津より入封。その後の加増もあわせて11万3500石。高次は旧来の古城を廃して翌01年より海辺の地雲浜(うんぴん)に小浜城の築城を始めた。1609年忠高が家督を継いだ。1634年(寛永11)忠高を松江に移し、かわって川越城主酒井忠勝(ただかつ)が11万3500石で入部。忠勝は38年大老に就任、将軍徳川家光(いえみつ)の信任厚く、幕政の中心人物として活躍した。小浜城(雲浜城ともいう)は前後41年を費やしていちおう完成、その間、多数の農村の若者を徴発し、かつ重税を課したため、253か村の住民が抗議して立ち上がるという事件が起きた。その後、1656年(明暦2)2代忠直(ただなお)が後を継ぎ、忠隆(ただたか)、忠囿(ただその)と続き、5代忠音(ただおと)は寺社奉行(ぶぎょう)、大坂城代、老中の要職を歴任。その後、忠存(ただあきら)、忠用(ただもち)、忠與(ただよし)と続き、9代忠貫(ただつら)のとき1774年(安永3)に藩校順造館を創立開校した。ついで10代忠進(ただゆき)は寺社奉行、京都所司代(しょしだい)、老中などを歴任。11代忠順(ただより)は数年で隠居。12代忠義(ただあき)は奏者番(そうじゃばん)兼寺社奉行、京都所司代を勤め、大老井伊直弼(いいなおすけ)の腹心として条約勅許問題や将軍継嗣(けいし)問題の処理に活躍した。次が忠氏(ただうじ)、その次忠禄(ただとみ)のとき1869年(明治2)に版籍を奉還。71年廃藩、小浜県、敦賀(つるが)県を経て、81年再置の福井県に編入された。[井上正一]
『『新編物語藩史 第6巻』(1976・新人物往来社)』

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