森町村(読み)もりまちむら

日本歴史地名大系 「森町村」の解説

森町村
もりまちむら

[現在地名]森町森

赤石山脈の南麓に属する山間部と太田おおた川によって形成された扇状地上に広がる円田えんでん平野との接点にあり、東側を太田川が南流する。同川沿いに秋葉街道が南北に貫き、同街道を中心に町場が形成されていた。周知すち郡に属する。当地一帯は中世には太田郷とよばれていた。永享九年(一四三七)一〇月二三日、山名やまな鎌田かまだ御厨下和口しもわぐち(現磐田市)の阿弥陀堂に奉納された鐘の銘(遠江国風土記伝)には「大工一宮森左衛門三郎藤原宗次」とある。長禄二年(一四五八)一一月六日豊田とよだ二俣ふたまた光明こうみよう(現天竜市)に奉納された梵鐘の銘(同書)には「森住大工藤原次盛」とあり、また正長元年(一四二八)八月一五日の大洞だいとう院の大鐘銘写(「当山室中宝蔵記」崇信寺蔵)の「大工藤原権守盛家」も当地の鋳物師であろう。永正一一年(一五一四)八月の六所大明神(現掛川市)鐘銘写(松井文書)には「一宮西脇大工次郎兵衛 引大工藤四郎」、天文元年(一五三二)一一月二〇日の乗安寺雲版銘(常円寺蔵)には「金屋住人 横山久治」がみえる。弘治三年(一五五七)二月一三日の今川義元判物(蓮華寺文書)によれば当地の金屋は蓮華寺に所属しており、天正一〇年(一五八二)一〇月一一日「蓮華寺金屋」での竹木の伐採が徳川家康の奉行本多重次により禁止され(「本多重次森制写」蓮華寺文書)、同一五年一月一五日、「かな屋七郎左衛門」は、徳川家康より駿遠両国鋳物師惣大工職を与えられている(「徳川家康朱印状」山田文書)

一方、永禄一二年(一五六九)二月二六日の今川氏真判物写(「阿波国古文書」所収鈴木勝太郎所持文書)に「遠州森之内大田郷」とあり、戦国期には太田郷を包摂する地域呼称となっていた。天正五年七月一一日、徳川家康の家臣大須賀康高は梅林ばいりん庵に森村のうちにおいて寺地寺領分法恩庵領二反・神祐寺領一反二丈・公文名内二反を新寄進し(「大須賀康高判物」梅林院文書)、同年一二月二七日には森市場での押買狼藉など三ヵ条からなる禁制が下された(「某禁制」森町史編さん室所蔵写真)


森町村
もりまちむら

[現在地名]下田村森町

五十嵐いからし川右岸の河岸段丘面から沖積地にかけて立地。荒沢あらさわ村の対岸に位置する。正保国絵図に「森町」と記し、高三八〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では二七一石余・家六七戸。文化一一年(一八一四)の森町組家数書上帳(金子泰夫氏蔵)では寺・山伏などを含め総戸数七八。嘉永六年(一八五三)の三組役成帳(藤田稔氏蔵)によると、森町組大庄屋・御用紙宰領・御用木下廻り・御米御蔵番・問屋などの諸役が置かれ、森町組の中心であった。


森町村
もりまちむら

[現在地名]大分市森町

乙津おとづ川左岸の沖積平野に位置する。一八世紀中頃には北の門田もんでん村との境に「従是南臼杵領」と記された境木が設置されていた(「雑録」臼杵藩政史料)。江戸時代を通じて臼杵藩領。慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高九五五石余、森町組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によると田高五四〇石余・畑高四一四石余。正保郷帳には高田たかた庄と付記

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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