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植村文楽軒(初代) うえむら ぶんらくけん

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

植村文楽軒(初代) うえむら-ぶんらくけん

1751-1810 江戸時代後期の人形浄瑠璃(じょうるり)劇場主。
宝暦元年生まれ。寛政のころ大坂にでて,文化2年ごろ「高津(こうづ)新地の席」という人形浄瑠璃の小屋をひらく。のちの文楽座のはじまりで,6年北堀江市の側に小屋をうつした。文化7年7月9日死去。60歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。通称は道具屋与兵衛

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朝日日本歴史人物事典の解説

植村文楽軒(初代)

没年:文化7.7.9(1810.8.8)
生年:宝暦1(1751)
人形浄瑠璃文楽座の始祖。本名は正井与兵衛,文楽軒は素人浄瑠璃の芸名,植村姓は淡路人形の座本の上村源之丞をもじったもの。淡路島仮屋(兵庫県津名郡淡路町)の出身で,竹本,豊竹両座が退転し人形浄瑠璃が衰微しはじめた寛政ごろ(18世紀末)までに大坂に出て,高津橋南詰西の浜側に浄瑠璃稽古場を開き,さらに文化2(1805)年,高津新地に小屋をたて人形浄瑠璃の興行を始めたのが,のちの文楽座の源流となった。文化6(1809)年,堀江市の側に移り,2年後2代目文楽軒(嘉兵衛・浄楽)が博労町の難波神社境内,通称「稲荷の芝居」に進出,興行主としての地歩を固めた。以後,文楽軒の名は5代を数えるが,特に初代の孫の3代目(4代目とも)大蔵(文楽翁)が傑物で,明治維新の混乱期によく危機を乗り越えて松島文楽座,さらに御霊文楽座へと発展。これに対抗して明治17(1884)年に旗あげした彦六座との競争が人気をあおり,明治期における人形浄瑠璃の隆盛を築き上げ,文楽の名称が人形浄瑠璃の代名詞として通用するまでに至った。しかし,その死後は座運が傾き,42年になって経営は松竹の手に移った。<参考文献>国立劇場芸能鑑賞講座『文楽』,『義太夫年表/明治篇』

(山田庄一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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