日本歴史地名大系 「槻河内・板谷河内」の解説
槻河内・板谷河内
つきのかわち・いたやのかわち
寛永四年(一六二七)に表面化し、延宝三年(一六七五)に幕府評定所の裁決が下るまで約半世紀にわたって繰広げられた飫肥藩と鹿児島藩との藩境争論の論地の一つ。槻之河内・板谷之河内などとも記し、近世の
〔藩境争論の始まり〕
寛永元年、飫肥藩領北河内村の者が板谷河内「かきの浦」で槻(欅)の巨木を伐り出しているのを鹿児島藩領
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報