権現山古墳(読み)ごんげんやまこふん

日本歴史地名大系 「権現山古墳」の解説

権現山古墳
ごんげんやまこふん

[現在地名]唐津市和多田東谷山

権現山の丘上にあり、古墳時代後期前葉に築成されたものと推定される。明治三九年(一九〇六)石棺が掘り出され内部から白骨と武器が発見されたが、石棺は再埋置された。昭和五〇年(一九七五)調査を実施した(「新郷土」昭和五〇年九月号)

この古墳は、小山丘上に営まれた円墳で、墳丘は径一三メートル前後と推定され、内部主体は主軸東西の方向においた長持形石棺である。石棺は砂岩製で、身部は四個の扁平加工石を組み立てて構築され、底石は設けられていない。


権現山古墳
ごんげんやまこふん

[現在地名]蒲郡市清田町 木森

標高四五四・五メートルの五井ごい山の南麓にいくつか延びる尾根突端に築かれた後期円墳。標高およそ七〇メートル。地名を取って木森きもり一号墳ともよばれる。南に開口する横穴式石室を内部主体とする。径二〇メートルほどの墳丘とみられるが、封土はほとんど流失し、石室が露出している。周辺は蜜柑畑に開墾されていて、古墳だけが雑木林として残る。開墾時には、この辺り一帯に土器片が散乱していたというが、今は見当らない。


権現山古墳
ごんげんやまこふん

[現在地名]宇都宮市茂原町

川の沖積低地の西側、比高三メートルほどの台地南端を占める。南東面する前方後円墳で、墳丘全長約八〇メートル、後円部の径約四五メートル、高さ約七メートル、前方部は後円部より低くやや狭長である。前方部東側の墳裾は道や人家で削られ、後円部のくびれ部寄りの辺りの墳丘も損じているが、西側は周湟をよく残す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の権現山古墳の言及

【豊橋[市]】より

…市街地南部には文教・住宅地区としての高師(たかし)原,さらにその南には天伯(てんぱく)原の洪積台地が広がり,数十mの海食崖によって遠州灘に面している。牛川人として知られる化石人骨を出土した牛川洞窟遺跡,縄文時代の嵩山蛇穴(すせじやあな)(史),弥生時代の瓜郷遺跡(史),古墳としては権現山古墳などがある。中心市街地は豊川左岸にあり,鎌倉時代は渡津集落としてにぎわった。…

※「権現山古墳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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