江戸時代,灘,伊丹などの上方から江戸へ積み出される酒樽(4斗樽)をおもな荷として,大坂,西宮から樽廻船問屋によって仕立てられた廻船。樽船ともいう。船型は菱垣(ひがき)廻船と同じく弁才船で,当初は500石積みから1000石積みを主体としたが,19世紀以降には1500石積み級が中心となり,積載能力は1000石積みで1600樽から2000樽であった。
酒荷は当初菱垣廻船に他の商品とともに混載されていたが,1730年(享保15)に江戸十組(とくみ)問屋から酒問屋が脱退して,菱垣廻船とは別個に酒荷専用船が運航された。それは菱垣積荷物は江戸問屋の注文に応じて送られる仕入れ荷物であったのに対し,酒荷は送り荷物といって酒問屋への委託販売であったため,海難によって生ずる海損負担が荷主である酒屋にかかったためである。しかも酒荷は迅速性と安全性が要請されたが,酒樽という同一規格商品を積み込むため,混載とは違って荷役に便利で,仕立日数もそれだけ短縮することができた。そのうえ酒樽は下積荷物であるため,余(よ)積みと称して低運賃で上積荷物である荒荷(雑貨類)を積み込むようになり,積荷をめぐって菱垣廻船と紛争がたえなかった。そこで1773年(安永2)酒荷は樽廻船一方積みとし,米,糠(ぬか),藍玉,灘目そうめん,酢,しょうゆ,阿波ろうそくの7品は両積み,それ以外は菱垣廻船一方積みとする積荷協定がなされた。しかし樽廻船は迅速で低運賃であるため,この協定はなかなか守られず,盛んに菱垣積荷物が樽廻船に洩(もれ)積みされていった。1808年(文化5)杉本茂十郎が江戸十組問屋を改革して,菱垣廻船の勢力挽回をはかった結果,ようやく立ち直るかにみえた。また33年(天保4)には両積荷物を前述の7品以外に,鰹節,塩干肴,乾物および幕府御用砂糖を加え,両積荷物の枠をひろげて,積荷仕法が守られることを期待した。しかし41年(天保12)の株仲間の解散によって,菱垣廻船の特権が失われたのに乗じて,樽廻船は積荷範囲を拡大し,菱垣廻船を不振に追いこんだ。51年(嘉永4)の株仲間再興以降においても,荒菱垣とか仮菱垣とか称して,樽廻船が積極的に菱垣荷物を請け負うようになり,樽廻船問屋が菱垣廻船問屋をも兼ねて,樽廻船が完全に菱垣廻船を圧倒していった。
執筆者:柚木 学
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江戸時代、大坂・西宮(にしのみや)から江戸への酒荷輸送に従事した商船。主たる貨物が、灘(なだ)・伊丹(いたみ)など上方(かみがた)から江戸積みされる酒樽(さかだる)(四斗樽)であったためこの称がある。当初、酒樽は菱垣(ひがき)廻船に木綿、油などといっしょに混載されていた。正保(しょうほう)期(1644~48)に伝法船が酒荷の積(つ)み下(くだ)しを始め、1671、72年(寛文11、12)には活躍著しく、酒荷を主とし一部荒荷(雑貨)も積み合わせた。これがのちの樽廻船の始まりで、船足が速く小早(こはや)とよばれた。1730年(享保15)に酒荷を取り扱う酒問屋が、江戸十組問屋より分離独立して、別個に酒荷専用船として樽廻船が仕立てられるようになった。その理由は、菱垣積み荷物は江戸問屋の注文荷物であったのに対し、酒荷は酒屋荷主からの委託荷物であったため、海難に際しての損失は荷主である酒屋が負担したこと、しかも酒荷は迅速性と安全性が要請されたため、混載による荷役積込み作業の煩雑さを避けて輸送所要日数の短縮を図ったこと、などがあげられる。その結果、低運賃と酒屋の支援もあって、幕末期には樽廻船が菱垣廻船を圧倒してゆくのである。
[柚木 学]
『柚木学著『近世海運史の研究』(1979・法政大学出版局)』
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主として酒荷を上方から江戸に輸送した廻船集団。はじめ酒荷は十組問屋傘下の菱垣(ひがき)廻船の積荷だったが,酒荷の特質などから荷主の摂津国灘の酒家中(酒造家)はしだいに菱垣廻船に不満を募らせ,1730年(享保15)十組を脱退して独自に酒荷専用の廻船を仕立てるようになった。これが樽廻船である。その後酒荷の上荷として菱垣廻船積荷を洩積みするようになったため,低迷する菱垣廻船との間に紛争がたえず,明和年間には積荷協定を結んだが,その後も樽廻船の優勢はゆるがなかった。しかし天保期以後は,積荷の菱垣廻船化が進み,中核である酒家中から不満が出るなどの問題を抱え,新興の尾州廻船などに押されて,その勢力に衰えがみられた。
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…共同海損は,中世は配当といい,14世紀初めの南北朝ころにはすでに行われ,中世後半からは《廻船式目》や海路諸法度にも,その方法に関する条文が見え,民間商船において慣行とされていた。江戸時代には運賃積運送をもっぱら行った菱垣(ひがき)・樽廻船において,この制度が確立し,最も厳格に行われた。その慣習法によると,廻船積合の荷主は,打荷の場合のみならず,破船の場合も海損を負担した。…
…米は大名が国元より江戸に運んでいたこともあり,商品として廻漕されるようになるのは寛文期(1661‐73)ごろからである。上方・江戸間の海運にあたったのは菱垣廻船と樽廻船で,菱垣廻船の起源は1619年(元和5)に泉州堺の商人が大坂より日用品を江戸に廻漕したのに始まるといわれる。ついで27年(寛永4)大坂に菱垣廻船問屋が開業し,菱垣廻船の仕立てを行い,御城米と一般商人荷物の江戸向輸送にあたらせるようになった。…
…江戸においても旧十組問屋のなかから,大坂に対応して江戸九店が結成され,互いに連絡をとりあっていわゆる九店差配船をその専用船として掌握した。九店差配船は,従来の菱垣廻船問屋と新たに樽廻船問屋によっても仕立てられる廻船で,菱垣,樽両廻船の区別もなくなり,完全に樽廻船が九店差配船として,江戸・大坂間の海運の主力となった。ただし,樽廻船仕立ての場合は,酒荷のほかに荒荷をも積むことができたが,九店仲間差配の場合は,たとえ樽廻船であっても,酒荷の積入れは禁止され,また難破船の海損処理は,九店積合仲間の世話番がこれに当たった。…
…江戸時代に,菱垣(ひがき)廻船や樽廻船で上方から江戸へ輸送される商品のうち,とくにその年の最初の綿や酒の積荷を積んで,同時に出帆して江戸到着を競争した海上レース。当時の人々はこのレースに賭をし,人気を集めた年中行事であった。…
…江戸時代に,樽廻船とともに江戸・大坂間の海運の主力となり,木綿,油,酒,酢,しょうゆ,その他江戸の必要とする日用品を輸送した菱垣廻船問屋仕立ての廻船。船型としては弁才船(べざいぶね)と呼ばれる大和型帆船で,通称は千石船と呼ばれた荷船である。…
※「樽廻船」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
北大西洋にある世界最大の島。デンマーク自治領。中心地はヌーク(旧ゴートホープ)。面積217万5600平方キロメートルで、全島の大部分は厚い氷に覆われている。タラ・ニシンなどの漁業が行われる。グリーンラ...
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