日本大百科全書(ニッポニカ) 「杉本茂十郎」の意味・わかりやすい解説
杉本茂十郎
すぎもともじゅうろう
生没年不詳。江戸時代中・後期の商人。甲斐国(かいのくに)八代(やつしろ)郡夏目原(なつめはら)村(山梨県笛吹(ふえふき)市御坂(みさか)町)百姓次左衛門(じざえもん)の子に生まれ、18、19歳で江戸に出る。1798年(寛政10)万(よろず)町の定飛脚(じょうびきゃく)問屋大坂屋茂兵衛(もへえ)の養子となり、翌年襲名し家業を継いだ。菱垣廻船(ひがきかいせん)問屋の衰微を表す文化(ぶんか)年間(1804~18)の砂糖問屋をめぐる内部対立を仲裁し、十組問屋(とくみどんや)の頭取(とうどり)として力を強め、三人扶持(ぶち)で苗字(みょうじ)帯刀を許されて改名した。以後、三橋(さんきょう)会所・米会所の設立と頭取への就任、水油売買会所掛も命ぜられた。1813年(文化10)には菱垣廻船積問屋仲間株が公認され、茂十郎は町年寄次席の座をも手中にし、町政にも権勢を振るった。19年(文政2)前年の米の延(のべ)売買の失敗、また幕政のある程度の転換もあって失脚し、晩年を紀州藩御用達屋敷で送ったという。
[浅見 隆]
『津田秀夫著『日本の歴史22 天保改革』(1975・小学館)』