正木村(読み)まさきむら

日本歴史地名大系 「正木村」の解説

正木村
まさきむら

[現在地名]岐阜市正木

下土居しもつちい村・鷺山さぎやま村の西に位置し、南部を長良古々川が流れる。主集落東正木は東端の鷺山西麓にあるが、支郷西正木・南正木は村南西隅にある。西境はだん川、北境は鳥羽とば川で、長良川の支流で低平なため、長良川が出水すれば激しく逆流した。天正一一年(一五八三)七月、岐阜城主池田元助は「正木郷」に禁制を下している(「池田元助禁制」山田文書)

慶長四年(一五九九)三月二七日、織田秀信の家臣木造長広は正木村には代官がいないため、年貢収納を同村の山田孫助に申付けている(「木造長広所務申付状」山田文書)関ヶ原の合戦直前の翌五年八月、秀信が「柿内正木郷寺内」に(「織田秀信禁制判物」同文書)、また直後の九月二三日には徳川家康が当村など近隣四ヵ村に禁制を下している(「徳川家康禁制朱印状」同文書)。正木郷寺内とは、当地垣内かきうちに天正五年に創建された正木御坊(浄土宗)にあたる。同坊は慶長一五年黒野くろの村に移され、黒野別院と称された。慶長九年と推定される八月二五日の本願寺准如書状(黒野別院文書)によれば、正木御坊に関する美濃の坊主衆・惣門徒衆の奔走に対する礼を本願寺准如光昭がしている。

正木村
まさきむら

[現在地名]館山市正木・北条正木ほうじようまさき

平久里へぐり川を挟んでみなと村の北に位置する。同川右岸(一部左岸)の平坦地、および北東部の丘陵地からなる。古くは東方の府中ふちゆう(現三芳村)も当村のうちであった。江戸時代はへい(はじめ北郡)のうち。集落は海岸部(浜方)川崎かわさき、丘陵裾部の正木岡まさきおか、平野部の本郷ほんごうからなり、さらに浜方の川崎は三組、正木岡・本郷(岡方)は上・下・中沼・谷田・向・女苅・西郷の七組に組分けされていた。鎌倉末期から南北朝初期の渡来僧竺仙梵僊の伝記「建長禅寺竺仙和尚行道記」には「捨安房州正木郷田庄若干、以贍其塔」とみえ、貞和四年(一三四八)竺仙が病んだことを伝え聞いた足利義詮が、竺仙の退居する鎌倉楞伽りようが(浄智寺塔頭)に正木郷内の田地を寄進し、見舞としている。正木郷は房総正木氏の名字の地とされるが、現在のところ正木氏の活動の痕跡は確認されていない。

正木村
まさきむら

[現在地名]一本松町正木

ささ山に水源をもつ松田まつだ川上流域の、険しい山に囲まれた篠川沿いの細長い村。松田川を挟んで西側が正木村、東側は窪川くぼかわ(現高知県宿毛市)となる。「墅截」によると国境は東方の正木川(現松田川上流篠川)で分れ、北方は「笹山一ノ王子、槇尾より東南へさしたる横尾峯」で分れると記される。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「正木村 深山有、川有、水損所」と村名がみえ、水害を受けやすい村であったことがわかる。宇和島藩領。

太閤検地の石高は一九八石七斗二升七合で、耕地面積の比率は田八七パーセント、畑一三パーセントであったが、寛文検地では石高は一三〇パーセントも増加し、田七六パーセント、畑二四パーセントとなっている。

正木村
まさきむら

[現在地名]君津市正木

宿原しゆくばら村の北東、小糸こいと川上流に位置する。元禄郷帳に村名がみえ、高四七石。寛永一八年(一六四一)から市宿いちじゆく村と同じく旗本曾根領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三〇。元禄一六年(一七〇三)の才真木請負証文(川俣家文書)によれば、大岩おおいわ村と同じく江戸の商人が当村などで才真木の生産を請負っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報