日本歴史地名大系 「正木村」の解説
正木村
まさきむら
慶長四年(一五九九)三月二七日、織田秀信の家臣木造長広は正木村には代官がいないため、年貢収納を同村の山田孫助に申付けている(「木造長広所務申付状」山田文書)。関ヶ原の合戦直前の翌五年八月、秀信が「柿内正木郷寺内」に(「織田秀信禁制判物」同文書)、また直後の九月二三日には徳川家康が当村など近隣四ヵ村に禁制を下している(「徳川家康禁制朱印状」同文書)。正木郷寺内とは、当地
正木村
まさきむら
- 千葉県:館山市
- 正木村
正木村
まさきむら
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「正木村 深山有、川有、水損所」と村名がみえ、水害を受けやすい村であったことがわかる。宇和島藩領。
太閤検地の石高は一九八石七斗二升七合で、耕地面積の比率は田八七パーセント、畑一三パーセントであったが、寛文検地では石高は一三〇パーセントも増加し、田七六パーセント、畑二四パーセントとなっている。
正木村
まさきむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報