日本歴史地名大系 「此隅山城跡」の解説
此隅山城跡
このすみやまじようあと
永正元年(一五〇四)夏には山名致豊と垣屋続成との抗争が再燃し(城崎郡日高町の→楽々前城跡)、続成が致豊・田結庄豊朝の立籠る此隅山城を攻めている。このとき出石神社に軍勢が乱入して火災が起こり、社壇・堂舎・仏像・経巻・末社諸神が焼失している(九月一二日「田結庄豊朝添状」・大永四年八月日「沙門某出石神社修造勧進状」神床文書)。天文九年(一五四〇)には祐豊と塩冶左衛門尉が策謀し、長善秀(越前守)を「このすみ山
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報