此隅山城跡(読み)このすみやまじようあと

日本歴史地名大系 「此隅山城跡」の解説

此隅山城跡
このすみやまじようあと

[現在地名]出石町宮内袴狭

宮内みやうち集落の北東、標高一四三・七メートルの独立丘陵(此隅山)に所在し、宮内集落との比高は約一三〇メートル。城域は南北約七五〇メートル・東西約一二〇〇メートルと広大で、山裾御屋敷おやしき(居館)を両翼から包込むような鶴翼の陣形を呈している。「こぬすみ」とも読み、子盗とも書いた。但馬の守護大名山名氏居城として周知されているものの、その築城時期を史料によって確定することはできない。伝承では文中年間(一三七二―七五)山名時義が築いたというが(但馬発元記・但馬一覧集)、応安五年(一三七二)但馬守護職に新補された山名師義築城の可能性も指摘され、さらに城の麓に宗鏡すきよう寺の寺跡が所在することから、明徳の乱で敗退した山名氏清(法号は宗鏡寺殿)による築城説もある。此隅の名称は「照千一隅、此則国宝」(山家学生式)から採用したものであろうとされている。

永正元年(一五〇四)夏には山名致豊と垣屋続成との抗争が再燃し(城崎郡日高町の→楽々前城跡、続成が致豊・田結庄豊朝の立籠る此隅山城を攻めている。このとき出石神社に軍勢が乱入して火災が起こり、社壇・堂舎・仏像・経巻・末社諸神が焼失している(九月一二日「田結庄豊朝添状」・大永四年八月日「沙門某出石神社修造勧進状」神床文書)。天文九年(一五四〇)には祐豊と塩冶左衛門尉が策謀し、長善秀(越前守)を「このすみ山□□(屋形カ)御前」で自害させている(長福寺古記写)永禄一二年(一五六九)八月、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)らが生野いくの銀山(現生野町)を接収し、「子盗、垣屋城」など一八城を攻略している(八月一九日付「朝山日乗書状案」益田家什書)。なおこれまでの研究では山名氏の守護所は一六世紀初頭(政豊・致豊の代)九日市ここのかいち(現豊岡市)から当城下の御屋敷に移動したとも考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「此隅山城跡」の解説

このすみやまじょうあと【此隅山城跡】


山名氏城跡(やまなししろあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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