日本歴史地名大系 「武石村」の解説 武石村たけしむら 千葉県:千葉市花見川区武石村[現在地名]花見川区武石町(たけいしちよう)畑(はた)村の西にあり、同村境を花見川が流れる。武石系図に承安元年(一一七一)一一月一五日千葉常胤の三男胤盛が武石三郎を称し、武石城に移ったとある。馬加康胤の墓、武石胤親の墓と伝える墳墓がある。天正一〇年(一五八二)角田将監が代官として支配していたとされるが未詳。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に「武石」「竹いし村」とみえ、高一八〇石、名主は玄蕃、四町半の道普請を負担。元和五年(一六一九)から「武士村南」二八六石余が江戸南町・北町両奉行の与力給知となり(「元禄年中地頭所取扱村々記」小倉家文書)、元禄一一年(一六九八)からは南町奉行与力給知。 武石村たけしむら 長野県:小県郡武石村武石村[現在地名]武石村依田(よだ)川支流武石川を挟む両側の村。「吾妻鏡」の建長二年(一二五〇)三月に「武石入道」とみえ、その後、建長―弘長(一二四九―六四)にかけて、北条氏の随兵武石氏がみえる。永享一二年(一四四〇)七月結城陣番帳(笠系大成附録)に赤沢・和田・山家氏らとともに「武石殿」がある。永正三年(一五〇六)下諏訪春秋両宮御造宮帳(諏訪大社上社文書)に春宮二之御柱造宮料として依田庄「武石分 合籾卅三俵七升此代六貫六百七拾文」と武石がみえる。室町期の領主大井氏の居館と推定される「堀の内」の地字と土居跡が、上武石(かみたけし)にあり、館はのちに下武石に移された(武石村郷土誌)。 武石村たけいしむら 新潟県:刈羽郡小国町武石村[現在地名]小国町武石渋海(しぶみ)川を挟んで千谷沢(ちやざわ)村本村の西にあたる。西方武石峠越の道は深沢(ふかさわ)・北条(きたじよう)(現柏崎市)を経て柏崎に至る。小国西組に属する。近世初めは高田藩領、天和元年(一六八一)幕府領、正徳元年(一七一一)与板藩領、文化一二年(一八一五)幕府領、文政元年(一八一八)出羽国上山藩領。正保国絵図に武石村高一九〇石余と押切(おしきり)村高二〇石がみえる。天和三年の検地寄帳(難波呂久郎氏蔵)では村高三四四石余で、田一六町六反余・畑屋敷三一町五反余・山四三町一反余・青苧畑一反余。 武石村たけしむら 長野県:小県郡武石村面積:八七・二三平方キロ郡の南部山間地帯の村。東西一五キロ、南北八キロ。北は丸子(まるこ)町、東は長門(ながと)町、南は和田(わだ)村、西は武石峠・美ヶ原(うつくしがはら)を隔てて松本市と境をなす。武石峰を源とする武石川は村の中央を東に流れ、途中焼山(やけやま)川・横沢(よこさわ)川・茂沢(もざわ)川・小沢根(おざわね)川・余里(より)川を合わせ、千曲川の支流依田(よだ)川に注ぐ。村の南西には美ヶ原高原台地が広がり、八ヶ岳中信高原国定公園に含まれる。山麓は焼山国有林をはじめ、広い森林地帯となっている。武石川に沿って県道美ヶ原―沖線が東西に通じ、武石峠を越え、松本市に至る。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by