中国、唐の第3代皇帝高宗の皇后武氏(則天武后)と、次の中宗の皇后韋氏とが、権力を握って政治を乱した事件。2代続けて女性が政治に関与した事件として、唐代の女禍の最たるものとして知られる。武氏は才略に富んで野心があり、皇后のときから病弱な高宗にかわって権力を振るった。683年高宗の没後に即位した中宗を翌年に廃し、睿宗(えいそう)をたてて実権を握った。690年睿宗を廃して自ら皇帝となり、国号を周と改めた。武后は性残忍で政敵を弾圧したが、諫言(かんげん)をよく聞き、人材を登用して治政にも努めた。705年武后が退位して中宗が復位すると、韋后は武后をまねて闇弱(あんじゃく)な中宗にかわって権力を振るい、武后の甥(おい)武三思(ぶさんし)と通じ、濫官(らんかん)政策を行って政治を乱した。710年、野心家の娘安楽公主と中宗を毒殺したが、睿宗の子李隆基(りりゅうき)(玄宗)に誅殺(ちゅうさつ)された。なお、安楽公主やのちに玄宗と対立して倒される太平公主も武氏と姻戚(いんせき)関係にあり、一連の政治事件に武氏一族が関与していることは注目される。
[金子修一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
高宗の皇后の則天武后,中宗の皇后の韋后(いこう)が政権を奪って唐の政治を混乱させたとされる事件。実はこの混乱は,高宗の頃より均田農民が流亡して社会不安が増し,他方,新興地主や商人が台頭して,門閥貴族の独占していた政権に参加しようとし,武后,韋后と結んだ結果起こったものといわれる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…病床の身で幽閉された武后は間もなく亡くなった。中宗の皇后韋氏(?‐710)はかつての武后のごとき存在となり,後世,この2人は政治を乱したとし〈武韋の禍〉と非難されることが多かった。武后は死後,高宗とともに乾陵に合葬された。…
… このような政治の混乱を正し,〈貞観の治〉の再現をめざしてクーデタを起こしたのが,のちの玄宗であった。玄宗治世の前半が,年号にちなんで〈開元の治〉とたたえられているのに対し,武后と韋后という女性が権力を握った時代は,儒教に立脚する伝統的な史観から〈武韋の禍〉と称され非難の対象とされてきた。武后は人心収攬(しゆうらん)策として定員外の官職を設けたり,韋后は売官の制,つまり官職を金銭で売る制を始めたりしたからでもある。…
※「武韋の禍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新