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韋后 イコウ

デジタル大辞泉の解説

い‐こう〔ヰ‐〕【韋后】

[?~710]唐の第4代皇帝中宗の皇后。中宗復位後権勢を振るう。710年政権をねらって中宗を毒殺したが、李隆基(のちの玄宗)らの反乱で殺された。→武韋(ぶい)の禍(か)

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百科事典マイペディアの解説

韋后【いこう】

唐の中宗の皇后。中宗が母の則天武后に廃されていたとき,内助の功があった。その復位後は政治に関与し,ついに中宗を毒殺。玄宗の挙兵により殺された。武后と並べて〈武韋の禍〉といわれる。
→関連項目開元の治

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世界大百科事典 第2版の解説

いこう【韋后 Wéi hòu】

?‐710
中国,唐の中宗(在位683‐684,705‐710)の皇后。京兆万年(陝西省西安)の人。いったんは皇后となり,翌年に中宗が則天武后によって房州に流された際も苦労をともにした。20年後の705年(神竜1),中宗の復位によって皇后に復活するや,高宗における武后のごとくふるまい,武三思(?‐707)と私通し,売官によって富商などを官に任じた。ついには中宗を毒殺したが,まもなく後の玄宗らに誅殺された。武后と並べて〈武韋の禍〉といわれる。

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大辞林 第三版の解説

いこう【韋后】

?~710) 中国、唐の中宗の皇后。政治に介入し、710年政権をねらって中宗を毒殺したが、李隆基(後の玄宗)に殺された。 → 武韋ぶいの禍

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

韋后
いこう

韋氏」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

韋后
いこう
(?―710)

中国、唐第4代皇帝中宗の皇后。京兆万年(陝西(せんせい)省西安)の人。中宗が皇太子のとき妃(きさき)に選ばれ、684年皇后となった。則天武后(そくてんぶこう)によって中宗が房州(湖北省)に流されている間は艱苦(かんく)をともにした。しかし705年に中宗が復位すると武后の甥(おい)武三思(ぶさんし)と通じ、政治に不熱心な中宗にかわって実権を握り、濫官(らんかん)政策を行って政治を乱した。ともに帝位に野心をもつ娘安楽公主と謀って中宗を毒殺したが、第5代皇帝睿宗(えいそう)の子隆基(後の玄宗)にともども誅殺(ちゅうさつ)された。[金子修一]

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世界大百科事典内の韋后の言及

【開元の治】より

…このとき唐朝は安定と繁栄を見たので,〈開元の治〉といい,太宗の〈貞観(じようがん)の治〉に擬せられる。玄宗李隆基は2度にわたるクーデタによって韋后と太平公主(則天武后の娘)の勢力を一掃し,712年(先天1)帝位についた。以後姚崇宋璟らの名臣を用いて政権の公的性格を回復することにつとめた。…

【唐】より

…この武周王朝は,わずか1代15年で消滅して唐王朝が復興し,首都は長安に戻された。しかし,その後も武后の再来ともいえる中宗の皇后の韋氏(韋后)によって類似の政治が行われた。 このような政治の混乱を正し,〈貞観の治〉の再現をめざしてクーデタを起こしたのが,のちの玄宗であった。…

※「韋后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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