日本大百科全書(ニッポニカ) 「毛利重能」の意味・わかりやすい解説
毛利重能
もうりしげよし
生没年不詳。江戸初期の和算家。1622年(元和8)の著書の巻末に「摂津(せっつ)国武庫(むこ)郡瓦林(かわらばやし)の住人、今京都に住む、割算の天下一と号する者なり」とあるので、出生の地と現住所がわかるだけである。瓦林はいまの甲子園の近くで、先年この地に重能の記念碑がつくられ、同じ熊野神社の境内に算祖神社も建てられた。関孝和(せきたかかず)の弟子荒木村英(そんえい)の『荒木先生茶談』のなかに「古来の算師毛利勘兵衛(かんべえ)重能は豊臣(とよとみ)氏に仕え、大坂城中にあったが、落城ののち、江戸に出て浪人となった」とある。毛利重能の弟子には今村知商(ともあき)、吉田光由(みつよし)、高原吉種(よしたね)の3人があり、高原の弟子は関孝和、関の弟子が荒木村英であるから、村英のいうところはまず信用できるであろう。江戸で浪人したのち、京都へ行ったとも考えられる。
このへんまでが毛利重能の伝記で信頼すべきところであろうが、後世になると伝記はどんどん拡大していき、渡明(とみん)説が現れ、出羽守(でわのかみ)に任ぜられたという説も生じた。
[大矢真一]