改訂新版 世界大百科事典 「民族音楽学」の意味・わかりやすい解説
民族音楽学 (みんぞくおんがくがく)
ethnomusicology
音楽学の一部門。研究の対象と方法が民族学ないし文化人類学と重なるため,文化人類学の一部門とも考えられ,音楽人類学anthropology of musicないし音楽民族学musikalische Völkerkunde(ドイツ語)および音楽民俗学musikalische Volkskunde(ドイツ語)と呼ぶこともある。もともとethnomusicologyの名称は,1950年J.クンストによって使われたのが最初で,そのときはethno-musicologyとハイフン付きで表記されていた。これはethnology(民族学)とmusicology(音楽学)とを結合した研究領域という意味である。これは各文化(ないし民族集団)に固有の音楽表現にみられる民族性と,すべての人類の音楽行動とその所産に共通してみられる普遍性の解明を目ざしたものであった。この研究領域はそれ以前は〈比較音楽学vergleichende Musikwissenschaft(ドイツ語),comparative musicology〉と呼ばれていた。
民族音楽学はその前身である比較音楽学の研究領域をほぼ受け継いでいるが,研究対象と方法論は,個々の研究者によってさまざまに異なり,したがって,この専門分野の定義も研究者の数ほど多い。元来,この学問はヨーロッパにおいて〈異民族の音楽〉の研究として発達したため,多くの学者は研究対象を非欧米文化の音楽,すなわち西欧の〈芸術音楽〉以外の音楽(楽器,舞踊を含む)の研究に集中した。したがって,過去においては,アフリカやアメリカ・インディアンなど無文字社会の音楽,アラブ,イラン,インド,インドネシア,中国,日本などの伝統的な古典音楽,そして世界各地の伝承民謡(欧米の民俗音楽を含む)の共時的な研究がその大半を占めていた。つまり,研究対象としての音楽文化の部外者である研究者が,科学者の目で外から観察し,分析・比較するという姿勢である。同時に,このアプローチには通時的な観点がしばしば欠落していた。しかし,文化の担い手が民族音楽学の方法論を用いて自らの音楽文化を研究する場合も少なくないのであって,近年アフリカ人によるアフリカ音楽の研究や,インド人によるインド音楽研究は盛んに行われている。また,日本人による日本音楽の研究が常に民族音楽的なものかというと,決してそうではない。西洋音楽の歴史的研究があるように,日本音楽の歴史的研究があり,インド音楽史,アフリカ音楽史も当然ありうる。非欧米音楽を対象とする研究は方法論のいかんを問わずすべて民族音楽学の領域にしてしまうのは,過去の西欧の自民族中心主義的な偏見のなごりである。
民族音楽学は音楽の民族誌を研究の出発点ないし基礎とするため,文化としての音楽をそっくり記録するフィールドワークを重要視するが,民族音楽学者の仕事は山間僻地の民謡録音に終始することでもなければ,音楽の共時的研究のみで満足するものでもない。都市のポピュラー音楽を研究対象とした音楽の文化変容の問題,楽器や記譜法の歴史的変遷といった社会学的・歴史学的研究にも当然関心がもたれる。さらに西欧のいわゆる芸術音楽さえ民族音楽学の研究対象になりうるのである。また音の象徴性や美意識の問題などをグローバルな観点から検討することも忘れることはできない。とすれば,この地球上のすべての文化の音楽を研究対象とし,その音楽構造のみならず,それを取り巻く文化的脈絡,人間の音楽行動などあらゆる側面から多角的に考察し,ヒトはなぜ音楽するのか,ヒトの音楽にみられる普遍性とは何かを問う学問は,〈人類学〉や〈言語学〉の例に倣えば,本来〈音楽学〉と呼ばれるべきものであった。今日その研究対象や方法論が総括的なものであるにもかかわらず,〈民族〉の語が冠せられなければならないのは,従来もっぱら西洋の芸術音楽を扱う学問が〈音楽学〉と呼ばれてきた慣習のためである。この矛盾を考慮して,近年アメリカでは従来の民族音楽学の内容を指して,〈世界音楽world music〉の研究と称することもある。また,逆に民族音楽学における民族科学ethno-science的な側面を強調して,この方法論を前面に出した研究のみを〈民族音楽学〉と呼ぼうという向きもある。
ヨーロッパにおける民族音楽学的な関心の萌芽はすでにJ.J.ルソーにみられ,その《音楽辞典》(1768)には中国やペルシアを含む異民族の旋律が数曲採譜・収録されている。しかしこの背景には,それに先立つ数多くのヨーロッパ人の旅行家,探検家,宣教師,交易商人らによる東洋,アフリカ,新大陸の旅行記に記された異国の音楽に関する民族誌の存在があった。J.シャルダンの《ペルシア紀行》(1711),ケンペルの《廻国奇観》(1712)や《日本誌》(1727),J.B.デュ・アルドの《中国・タタール地誌》(1735),アミオJean Joseph Marie Amiot(1718-93)の《中国人の音楽に関する覚書》(1779),ビロトーGuillaume André Villoteau(1759-1839)がナポレオンのエジプト遠征に随行して調査した《エジプト誌》(1809)の中に収められた音楽・楽器の記述などはその代表的なものである。しかし,近代的な学問としての比較音楽学は1885年以降に成立した。初期の比較音楽学の業績で最も重要なものの一つは,A.J.エリスの《諸民族の音階》(1885)である。エリスは,音程の実体を正確に表記する目的でセント法を考案して用いた。また,この頃新しく開発された録音技術は比較音楽学を飛躍的に発展させた。
1890年にアメリカの人類学者フュークスJesse Walter Fewkes(1850-1930)はメーン州とニューメキシコ州のインディアンの歌を録音することに初めて成功した。ドイツの心理学者C.シュトゥンプはベルリン大学に心理学研究所を設立したが,比較音楽学に深い関心を寄せ,1900年から録音による諸民族の音楽の収集を始め,05年にはそこにフォノグラム・アルヒーフを併設するに至った。このフォノグラム・アルヒーフの所長としてシュトゥンプに協力したE.M.ホルンボステルこそベルリンを比較音楽学の中心地とした人物である。彼は協力者アブラハムOtto Abraham(1872-1926)と録音された異文化の旋律を採譜し,その音構造を解明しようと試みた。両名の共著である《日本人の音組織と音楽に関する研究》(1903)はその顕著な一例である。もう一人の重要な協力者はC.ザックスで,ホルンボステルとの共著《楽器分類法》(1914)は後にグローバルな楽器分類の基礎として広く用いられるようになった。ザックスをはじめ,M.コリンスキ,C.ヘルツォーク,M.F.ブコフツァーら,ベルリンでホルンボステルの同僚,助手,研究協力者だった音楽学者たちは,1930~40年代にかけて新大陸に移住し,以後この学問はアメリカで民族音楽学として隆盛をみる。
1955年アメリカで文化人類学と音楽学の二つの研究領域に関心をもつD.マカレスター(1916- ),A.P.メリアム,W.ローズ,シーガーCharles Seeger(1886-1979)らが創立者となって民族音楽学会Society for Ethnomusicologyを結成した。とりわけ,人類学者メリアムは文化的脈絡のなかにおいて音楽をとらえることを主張し,その名著《音楽の人類学》(1964)では,音楽構造の分析のみならず,人間の行動(身体行動,言語行動,社会行動,学習行動)として音楽を研究することの必要性を提起している。のちにメリアムは,この定義をさらに一歩すすめて,〈文化としての音楽〉を研究することこそ民族音楽学であるとした。音楽学者シーガーは民族音楽学において常に体系的音楽学としての論理的一貫性が保持されることの重要性を喚起し,また客観的な旋律記譜装置としてメログラフを開発したりした。オランダでクンストに師事したアメリカの音楽学者フッドMantle Hood(1911-2005)は民族音楽学の研究者が,フィールドで録音・録画するのみならず,音楽家として演奏能力をもつことの重要性を強調した。適切な訓練を受ければ複数の言語を操ることができるように,教育の方法しだいで人は複数の音楽様式に通じる能力bi-musicalityを獲得できると主張し,これをUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)付属民族音楽研究所で実践した。インドネシアのガムランをはじめ,インド,アフリカ,中国,日本の楽器の本格的な学習体験を通じて,個々の音楽文化の本質に迫るアプローチは,60年代以降のアメリカの民族音楽教育に大きい影響を与えた。また日本における民族音楽学の草分けとして小泉文夫(1927-83)の業績が大きい。
執筆者:柘植 元一
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