永明王(読み)えいめいおう(英語表記)Yǒng míng wáng

精選版 日本国語大辞典 「永明王」の意味・読み・例文・類語

えいめい‐おう ‥ワウ【永明王】

中国明朝最後皇帝(在位一六四七‐六二)。清と戦い、一時桂林、成都回復。のち呉三桂の軍に攻められ、雲南で殺された。桂王永暦帝。(一六二五‐六二

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改訂新版 世界大百科事典 「永明王」の意味・わかりやすい解説

永明王 (えいめいおう)
Yǒng míng wáng
生没年:1625-62

中国,南明の遺王の一人。在位1647-62年。桂王また永暦帝とも称する。姓名朱由榔(しゆゆうろう)。神宗の孫で,父は桂王朱常瀛(じようえい)。農民反乱軍の張献忠衡州湖南省)を攻めたとき広西へ逃れ,父の死後,桂王をついだ。のち唐王が福州(福建省)で清軍に捕らえられると,丁魁楚,瞿式耜(くしきし)(1590-1650)らによって肇慶広東省)に擁立され,永暦と建元した。瞿式耜や李定国の勇戦で一時反清運動は勢力を盛りかえしたが,やがてビルマ(現ミャンマー)に逃れ,ビルマ人に捕らえられ,呉三桂率いる清軍に引き渡され殺された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「永明王」の意味・わかりやすい解説

永明王
えいめいおう
(1625―1662)

中国、南明(なんみん)の遺王。姓名は朱由榔(ゆうろう)。万暦帝の孫。父は桂王朱常瀛(じょうえい)。1643年、張献忠軍の攻撃に際し、父とともに湖南の衡(こう)州から広西に逃れ、父の死後、桂王を継いだ。南京(ナンキン)の福王朱由崧(ゆうしょう)、福州の唐王朱聿鍵(いっけん)など明の諸王による抗清(しん)政権が、清軍によって次々に滅ぼされたのち、両広総督丁魁楚(ていかいそ)、広西巡撫(じゅんぶ)瞿式耜(くしょくし)らに擁立されて、46年末に広西の肇慶(ちょうけい)で即位し、最後の南明皇帝となった。年号は永暦(1647~62)。広西の梧州(ごしゅう)、平楽、潯(じん)州、桂林(けいりん)、柳州や湖南の武岡(ぶこう)など各地を転々としつつ、桂林の瞿式耜軍を中心に清軍に対抗したが、50年桂林陥落後、貴州、雲南に逃れ、さらに59年ビルマ(現ミャンマー)に入った。62年ビルマ王によって清軍に引き渡され、雲南で絞首された。

[岸本美緒]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「永明王」の解説

永明王(えいめいおう)
Yongmingwang

1625~62(在位1647~62)

の遺王。姓名は朱由榔(しゅゆうろう)。桂王,永暦帝とも称する。万暦(ばんれき)帝の孫で,明の滅亡後1647年,広東省肇慶(ちょうけい)で即位。一時は華南に大きな勢力を持ったが,清軍に追われて雲南からビルマに逃げ,呉三桂(ごさんけい)に捕えられた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「永明王」の解説

永明王
えいめいおう

1625〜62
南明の最後の王(在位1647〜62),桂王
復明のため挙兵。1646年広東で即位。呉三桂の清軍に追われ,雲南からビルマに逃れたが降伏。1662年殺され,明は完全に滅亡。一族に天主教徒(カトリック教徒)が多く,ローマ教皇に救援を求めた。

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世界大百科事典(旧版)内の永明王の言及

【南明】より

…中国,明朝滅亡ののち,その遺王たちは江南各地で清朝に対抗したが,彼らが建てた政権を南明と総称する。三藩(福王朱由崧,唐王朱聿鍵(いつけん),永明王朱由榔),四藩(三藩に魯王朱以海を加える)と呼ばれることもある。李自成が北京を陥れ,崇禎帝が自殺して明朝が滅ぶと,明朝復興運動が相次いで起こった。…

※「永明王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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