日本歴史地名大系 「河南村」の解説 河南村かわみなみむら 鹿児島県:肝属郡高山町河南村現宮下(みやげ)のうち肝属川南岸の宮下川南(みやげかわみなみ)が遺称地とされる。弘安四年(一二八一)六月日の某下文案(肝付文書)に「嶋津御庄大隅方肝付郡内河南村」とみえる。肝付兼員(阿仏)以後肝付(きもつき)郡弁済使職は大きく西方(にしかた)、岸良(きしら)村(現内之浦町)、河東(かわひがし)(東方村)に三分されたが、兼員の死後、子息らの間に相論が起こり、西方を譲与された惣領兼石と、西方に属する河南村弁済使職を別に譲与されたと主張する異母弟兼秀とが争った。結局兼員の兼秀に対する譲状が有効と認められ、兼秀を河南村弁済使職とするよう命じられている。 河南村かわみなみむら 滋賀県:神崎郡能登川町河南村[現在地名]能登川町川南(かわみなみ)小川(おがわ)村の北、愛知(えち)川左岸に立地し、西は阿弥陀堂(あみだどう)村。往古は江波(かわなみ)と称し、愛知川が付替わったため永禄期(一五五八―七〇)から川南と改めたという(万治三年「栗見大宮天神社記」栗見大宮天神社蔵)。中世対岸に稲葉(いなば)庄が存在したことから、地内の庄境(しようさかい)という地名は同庄境の意という。「大洞弁天当国古城主名札」に城主を高橋対馬守とする川南城がみえ、城跡は地内の浄土(じようど)寺の東にある川南家の屋敷一帯とされる。この川南家の祖が高橋氏で(元禄九年「川南重政覚書」川南文書)、肥田(ひだ)城(現彦根市)攻めや志村一揆に加わったという。 河南村かわみなみむら 大分県:大野郡大野町河南村[現在地名]大野町田代(たしろ) 川南(かわみなみ)駒方(こまがた)村の北、田代川南西岸にある。正保郷帳に川南村とみえ、田高一八一石余・畑高七四石余、一万田(いちまんだ)郷に属した。旧高旧領取調帳では高三二九石余。安永七年(一七七八)には田代組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。寛永年間(一六二四―四四)に岡藩主中川久盛により片島(かたしま)村から上津(あげつ)八幡社が当村大平(おおひら)に移された。 河南村かわみなみむら 石川県:加賀市河南村[現在地名]加賀市河南町大聖寺(だいしようじ)川が平野部にかかる地の左岸にあり、山中(やまなか)谷の谷口を占める要地。北は荒木(あらき)村。正保郷帳によると高四二八石余、田方一二町五反余・畑方一七町九反余、物成高一七一石余。「江沼志稿」には「川南」と記され、高四九七石余、家数五五・人数二二七、馬二三、小物成は山役四五匁余と紙役一〇〇目。灌漑はおもに市之瀬(いちのせ)用水と観音谷(かんのんだに)池によった。 河南村かなんむら 広島県:府中市河南村[現在地名]府中市河南町三郎丸(さぶろうまる)村の南に位置し、同村との境を御調(みつぎ)川が流れる。御調川沿いと谷あいに耕地が点在。「芸藩通志」は「広十町、袤十一町、東南は山に倚り、西北は御調川に界す」と記す。永享七年(一四三五)八月二一日付の備後国先達道者宿坊願文(熊野那智大社文書)に「備後国御調郡河南二村ノ北之原」、文明一七年(一四八五)閏三月二九日の備後国尾道権現堂檀那引注文(同文書)に「御調之内河南 河北悉皆」などとみえ、当地辺をさしているものと推測される。近世には御調郡に属し広島藩領。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by