日本歴史地名大系 「河棚村」の解説
河棚村
かわたなむら
現町域の全域をもって一村とする。川棚川沿いの上組郷「こう島」は神島とも記され、氾濫の折に鎮守の神体を移したので流出することがなかったが、それ以来その神域を川棚と称したという。下流筋の百津郷の
江戸時代は大村藩領で、海岸沿いに平戸往還が通る。江戸幕府に提出した天保郷帳などでは川棚村とするが、大村領内では東川棚村・西川棚村の二ヵ村とする場合が多い。両村は川棚川を境に分けたとされ、その時期は未詳ながら、文化一一年(一八一四)合併して再び一村になったという。天正年間頃、東川棚村は大村七郎左衛門、西川棚村は大村理右衛門が知行していたとされ、慶長高帳では知行高七一〇石余の大村理右衛門ら四人の庶家一門をはじめ、大村給人一人・小姓衆一人・彼杵給人一人・波佐見給人一人の知行。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報