日本歴史地名大系 「小峰城跡」の解説
小峰城跡
こみねじようあと
〔中世〕
結城白川氏の拠点として、南北朝時代初期結城宗広の長子親朝によって築かれたとされ、親朝は小峰氏を名乗ったという(「白河風土記」など)。親朝の長子顕朝は本家結城白川氏を継ぎ、次子朝常は小峰氏を継いだ(「結城系図」続群書類従)。両家は提携して勢力を拡大したが、永正七年(一五一〇)両家は対立し、永正の変を引起した。同年二月小峰朝脩と結城政朝が嫡子相続をめぐって不和となり、朝脩は自害した。九月小峰氏は岩城氏の来援を得て政朝を攻め、政朝は敗れて下野国那須に落ちたという(「異本塔寺長帳」など)。これにより同年間には当城が
〔近世〕
天正一八年当城主結城義親は豊臣秀吉の陣への不参を責められて所領を没収され、蒲生氏領となった当城は配下の関一政が城代となった。慶長三年(一五九八)上杉景勝の支配下となったが、同六年再び蒲生氏の支配となり、当城には城代として町野吉氏が入り約四万石を支配、城郭と城下の若干の整備を行ったという。
寛永四年(一六二七)
小峰城跡
こみねじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報