油町(読み)あぶらちよう

日本歴史地名大系 「油町」の解説

油町
あぶらちよう

[現在地名]盛岡市本町通ほんちようどおり一丁目

大工だいく町東部の北に位置する東西三町の商人町(盛岡砂子)。寛永城下図に油町とみえる両側町で、町の中央やや東の木戸から南の大手門へ至る油町横町が延び、同町は東の片側町となっている。北は遠曲輪の土手と堀を隔てて三割みつわり村に接する。寛文一三年(一六七三)二月に困窮の続いていた当町は六日むいか町の三斎市のうち一六日の市日をもらい受け、また新たに五の日の新市設置を藩より許されており(御家被仰出)、城下形成当初の藩の配慮が知られる。天明八年(一七八八)の家数七二・人数四九八(邦内郷村志)。文化九年(一八一二)油丁と改称(御家被仰出)幕末の城下図(葛西氏旧蔵)では当町は東から油町・二丁目・三丁目とみえる。


油町
あぶらちよう

[現在地名]高岡市大町おおまち京町きようまち

千保せんぼ川右岸、下桶屋しもおけや町の北に続き東西に延びる両側町で、北は母衣ほろ町。本町で、油屋が多く居住した。当町の御用として瑞龍ずいりゆう寺から前田利長墓所に至る八丁はつちよう道の石灯籠に点灯用の油を供給した(富山県教育界雑誌)。時割は二時三歩三厘、地子地五一〇歩六厘(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め三千八一六坪二合(沽券調総計帳)


油町
あぶらまち

さかい筋の両側町で、一―三丁目まである。北は清水町しみずまち筋で中津なかつ町と接し、南は三津寺みつてら筋より半町ほど南で道頓堀宗右衛門どうとんぼりそうえもん町に接する。油町三丁目は明暦元年(一六五五)、同一丁目・同二丁目は元禄六年(一六九三)から確認される(南区志)。しかし明暦元年の大坂三郷町絵図には一―三丁目の町名が記載されており、万治三年(一六六〇)の伏樋設置のときの覚(安井家文書)にも三町が独立した町とされるので、明暦頃から一―二丁目も三丁目同様にあったと推定される。油町の三町は大坂三郷北組所属の町で島之内しまのうちでは特異な存在であった(→島之内。三町とも伏樋一六町組に属し(→九之助町一丁目、万治三年の伏樋設置のとき三町が一〇匁ずつ分担した(安井家文書)


油町
あぶらちよう

[現在地名]岡山市舟橋町ふなばしちよう天瀬南町あませみなみちよう

外堀外の南方に位置する。東西の道を挟む両側町で、旭川と西にし川の間の郭外商業地域の町。東は久山くやま町・上内田かみうちだ町、南は上内田町と平野ひらの町、西は道を隔てて平野町と紺屋こんや町、北は紺屋町久山町。寛永城下絵図では町屋だが町名の記載はなく、慶安城下絵図に油町とみえる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は七反余で、徳米一〇石九斗余・口米二斗余。近世初期の区分は中町(市政提要)、中期以降は下組の外町(岡山市史)。元文三年(一七三八)薪を各浜から町々へ持込むについての費用の町割定書(市政提要)に「油町下より、同町迄二―三文ツヽ、児島町平野町迄四文ツヽ、小野田町小原町瀬尾町桜町迄五文ツヽ、西川筋六文ツヽ」とみえ、当町に旭川筋の船便可能な船着場があったと思われる。


油町
あぶらまち

[現在地名]福井市松本まつもと二丁目

加賀口かがぐち御門外の北陸街道沿いの町。慶長二〇年(一六一五)門内西側に足軽組屋敷を建置するため、松本油屋敷九六軒を立退かせ、門外に代地を与えて成立した町(福井市史)。松本町の北裏側にあたる足軽町を下油しもあぶら町とよぶのに対し、門外の町を上油町と称した。貞享二年(一六八五)福居御城下絵図以降、上油町の北に延びる下新しもあら町が描かれ、江戸末期には上油町を上荒かみあら町、下新町を下荒町とよぶようになった。


油町
あぶらまち

[現在地名]桑名市油町

南魚みなみうお町の東にあり、南北の長さ九〇間の町屋敷地。元禄家帳(「桑名市史」所収)では家数七三。当町東側には寛文―元禄(一六六一―一七〇四)頃、清水春流が居住した。春流は名古屋の生れであるが、桑名に移住して、釣虚子・売文翁と号した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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