出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪市中央区内の地名。東は東横堀川,西は旧西横堀川(1931埋立),南は道頓堀川,北は旧長堀川(1933埋立)に囲まれた地域をいう。平安時代末期または鎌倉時代初期のころ,石清水八幡宮寺領の三津寺荘が立荘されたが,石山合戦(1570-80)のとき,織田信長の軍勢により御津八幡宮,三津寺はじめ民家にいたるまで焼掠され,住民は四散したという。やがて豊臣秀吉の大坂築城にともない,船場(せんば)とともにようやく開発されはじめ,1585年(天正13)には東横堀川,1600年(慶長5)ごろには西横堀川が完成した。その後15年(元和1)に道頓堀川,25年(寛永2)に長堀川が開削されて,四周を運河によって囲まれ,あたかも島のようになったため,島之内の地名が生じたとされている。もっとも,大坂夏の陣が終わった当時は戦災によって荒廃し,《大坂三郷町中御取立承伝記》によれば,〈今の島之内は荒野にて,八幡も小宮,三津寺も小庵の由〉という状態であったが,1615年大坂城主となった松平忠明は,戦災の復興と市街地の整理に着手し,津村,三津寺,上難波などに散在していた墓地を千日に統合。19年南組惣年寄安井九兵衛は,島之内一円450間四方の市街地化を図り,4年後さらに川八町(宗右衛門町,御前町,布袋町,九郎右衛門町,久右衛門町,吉左衛門町,立慶町,湊町)を開発し,遊所および芝居興行を許可された。これより島之内の市街化は大いに進み,1700年(元禄13)には町数63町,家数1650軒に達し,船場とともに商都大坂の中心として繁栄した。91年(寛政3)には大火のため全焼し,その後1845年(弘化2),58年(安政5),60年(万延1)にも市街地を焼失したが,そのつど復興した。船場を〈商いどころ〉というのに対し,島之内は〈粋どころ〉と称され,大阪ミナミの繁華街のもととなった。現在,中央区の中央部に町名島之内が残されている。
執筆者:藤本 篤
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大阪市中央区の南部の地域。江戸時代の大坂三郷(さんごう)の一部で、北接する船場(せんば)とともに大阪を代表する商業地区。北は長堀(埋立て。国道308号)、南は道頓堀(どうとんぼり)、東は東横堀、西は埋立てられた西横堀(ともに高速道路高架下)に囲まれた地域で、船場の下町的性格をもつ。西部の心斎橋筋は商店街で、東部の堺筋(さかいすじ)はオフィス街、東西の町筋には問屋が多い。宗右衛門町(そうえもんちょう)は花街である。
[樋口節夫]
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