洋服裁縫の略語。つまり布を裁って縫う、洋服の裁縫のこと。和服を仕立てる和裁に対する語。英語ではドレスメーキングdressmaking、フランス語ではクチュールcoutureという。婦人・子供服、小物を仕立てるホームソーイング(家庭洋裁)の意味に用いることが多い。これに対する紳士物の仕立てはテイラーtailor、フランス語ではタイユールtailleurである。
[田村芳子]
今日的洋裁技術の基礎が確立したのは、バロック時代も終わりに近い17世紀後半のヨーロッパであった。衣服の裁断法や構成法はほぼ今日のものに近かった。1790年、イギリスの指物(さしもの)師トーマス・セイントがミシンの原型というべきものを発明、以来その改良が重ねられ、1851年にアメリカのアイザック・シンガーが画期的な留縫式ミシンを考案したことで、洋裁構成技術が大いに進歩し、19世紀末から20世紀にかけて衣服のマスプロ化を可能にした。
日本に西洋の衣服が入ってきたのは16世紀で、戦国時代の武将など特権階級にあった者が、ポルトガル人やスペイン人の南蛮服を、また江戸の鎖国時代には長崎の出島に在留していたオランダ人の紅毛服を愛用した。1858年(安政5)には横浜商会内に軍服や既製服を輸入する商会がつくられた。この2年後の1860年(万延1)、日米修好通商条約批准交換使節団に随行した通詞(つうじ)、中浜万次郎(ジョン万次郎)が、ウイルソン会社製の手回しミシンを咸臨丸(かんりんまる)で持ち帰った。これがわが国におけるミシンの第1号であろう。1862年(文久2)に、宣教師夫人ブラウンより、沢野辰五郎(たつごろう)らがミシンの使用法や婦人服の裁縫技術を習っている。同年、服装の簡素化を図って幕府の服制改革が行われた。1866年(慶応2)には調練用に着物式軍装の戎服(じゅうふく)(筒袖、陣羽織、陣股(じんこ)式)が採用された。これより前の1864年(元治1)に、沼間守一はイギリス軍人の古着を解体して型紙を試作し、長州征伐の兵が着用した軍服をつくっている。また、中浜万次郎の持ち帰ったミシンを買い取った、東京・芝の洋服屋、植村久五郎は軍服の調製にあたった。
1867年、ドイツのロスモンド・ウィルマン商会や、同じくラダージ・オエルケ商会という注文仕立てのテイラーが、既製服の輸入を、また、ドレスメーカーのミセス・ピールソンは衣料商と帽子の製造を始めた。翌年、幕府の手で開成所が開設される。この開成所で、ミシンの技術の教授と仕立物の注文を受ける旨の「西洋新式縫物器械伝習並に仕立物之事」と題する広告記事が『中外新聞』1号に掲載され、ミシンの発達と裁縫界に一大転機がもたらされた。
1868年(明治1)、西洋人によりテイラーやドレスメーカーが開かれた。これらは主として、前者は香港(ホンコン)から進出してきたイギリス人や、上海(シャンハイ)に支店をもつラダージ・オエルケ商会系のドイツ人、後者は滞日西洋夫人の経営の店が多い。横浜のほか、長崎や神戸にも西洋人が開業したが、渡来した中国人の洋裁技術者の開業した店の数は、西洋人のそれをしのいだ。1871年に慶応義塾内に仕立局が設けられたが、これはのちに丸善洋服部に変わった。1870年に軍服が制定され、陸海軍服が洋式になったほか、官公吏、警察官、郵便配達夫、鉄道員の制服はすべて洋式になった。1872年、太政官(だじょうかん)布告が発せられ、男子の礼装は、衣冠を祭服とするほかは洋装化することになった。この筒袖(つつそで)、股引(ももひき)の服の仕立てには、西洋人や中国人の店で修業した足袋(たび)職人、衣屋(ころもや)、袋物職人があたっている。同年、ドイツ人、サイゼン女史は築地居留地内に洋裁学校を創設し、日本の女性にその技術を教授したが、西洋人の家庭の「手間仕事」から婦人服の技術の習得をした者は多い。洋服の仕立ての技術を身につけた彼らは、のちに独立開業し、舶来屋とか女唐服(めとうふく)屋とかよばれた。これらの注文服屋は「一つ物屋」、軍服や官服の既製服屋は「数物屋」といわれ、東京と大阪に集中していた。
1873年わが国で初めての洋服裁縫書『改服裁縫初心伝』(勝山力松著)が発行されたが、これには礼服(燕尾(えんび)服)、平服(フロックコート)、達磨(だるま)服(詰め襟)、背広の裁ち方が詳しく述べられている。1878年に原田新次郎訳『西洋裁縫教授書』が出版され、採寸、製図、グラージュ尺(比例尺)とインチ尺の図引法、補正などの解説が載っていた。1883年、欧化政策の一環として鹿鳴館(ろくめいかん)が建設され、1885年には皇后宮思召書(おぼしめしがき)により洋装が奨励された。翌年に宮廷婦人服が洋装化し、一時的な洋装模倣時代になったが、極端な西欧化への非難によって長くは続かなかった。だが、1888年には、大家松之助編訳『男女西洋服裁縫独(ひとり)案内』なる本が出ており、このころ、最初の服装雑誌も刊行されている。
日清(にっしん)・日露の両戦役では大量の軍服の製作の必要に迫られ、その後に続く戦勝祝賀会や舞踏会、園遊会などでは洋服が着用されて洋裁技術の進歩とミシンの普及を促した。明治後期には、来日西洋人の増加、日本人の洋服着用の流行から洋服業も発展し、西洋人、中国人、日本人の洋服屋は横浜に集中していた。1906年(明治39)にシンガー裁縫院が設立されると、しだいに洋裁学校が設立されるようになって、女学校の教科書にも洋裁が取り上げられた。
大正中期の生活改善運動や大正デモクラシー思想の影響で、洋服は女子学生の制服、運動着、「職業婦人」の服、子供服、肌着にまで及んだ。また、1923年(大正12)の関東大震災、1932年(昭和7)の白木屋の大火などを契機にして洋装化が普及し、一方、すでに洋装のモガ、モボが出現しており、学校の制服やバスガールの制服などにも洋服が採用された。さらに、当時の世界大恐慌の不況を反映した「職業婦人」の増加が洋装化に拍車をかけた。震災後は、横浜の西洋人の洋服屋は帰国し、中国人、日本人の洋服屋は東京や神戸へ分散していったが、その後東京が洋服業の中心となった。すでに1922年に文化裁縫学院(1936年文化服装学院と改称)が、1926年にはドレスメーカー女学院が設立されていた。
最初のスタイルブック『服装文化』が出たのは1934年である。女性雑誌の付録として洋裁独習書がつき、家庭洋裁の便を図っていた。洋裁学校出身のドレスメーカーも出現し、日本人の洋服屋が各地に開業、1929年には既製服業者組合が結成された。また1937年には田中服装学園が設立されている。当時、日本人の衣生活は、男子では3分の2以上、女子では3分の1以上を洋服が占めていた。
第二次世界大戦終了までは和洋折衷の衣生活が展開されたが、戦後は和服から洋装への転換期を迎えた。洋裁学校の新設は急増し、和裁と並んで洋裁が花嫁修業の一つに数えられるようになった。ドレスメーカーは女性の職業となる一方、デザイナーという職業も確立して、1948年(昭和23)には日本デザイナークラブ(NDC)が設立されるに至った。欧米のモードが急速に導入され、それに伴って洋裁も盛んになり、洋裁雑誌も多々発行された。
1952年には日本の婦人・子供服標準寸法が制定され、徒弟制度の残っていた洋裁技術習得は、職業訓練法の制定(1958)や、労働省(現厚生労働省)の洋裁技能検定試験(婦人・子供服注文服製作作業と同既製服製造作業、紳士服注文服製作作業と同既製服製造作業)で明確にされた。また関心の高かったパリ・ファッションの新技術導入の必要性から、パリの一流デザイナーたちを招いてファッション・ショーや講習会が開かれた。1956年には日本のデザイナーがパリに進出、1962年にはパリのオートクチュールがプレタポルテ(既製服)を発表し始めて、既製服の高級化、ファッション性や技術の向上などがみられると、家庭洋裁は往時ほどもてはやされなくなった。洋裁学校における技術教育も、個人の仕立物製作にとどまらず、衣料・既製服業界で量産化に対処できるような技術者やデザイナーの育成を意図するようになった。
これと相まって、既製服業界は大きく発展し、かつては自分でつくるか注文するか、あるいはイージーオーダーを利用していた人も、しだいに既製服を利用し、個性的に着用するようになって、洋裁人口も減少しつつある。しかし一方で個性が重んじられる現代では、ホームソーイングの手作りのよさが再認識されている。また、家庭用ミシンは足踏み式から電動式へ、そして電子からコンピュータへと技術的に大きく進歩し、高性能のミシンの出現で、着るためにつくるのではなく、装うためにつくる家庭洋裁が普及しつつあるといえよう。
日本の衣生活は完全に洋服中心となり、それを支えているのが容易に手に入る既製服であるが、家庭洋裁は趣味と実益を兼ねたものとして存続していくものと思われる。
[田村芳子]
洋服の特徴は、体にあわせて立体的につくられる点にあり、和服が平面的であり、着付によって体にあわせるのと異なる。洋服は、家庭洋裁によるもの、既製服、注文服、イージーオーダーによるものの4種がある。第二次世界大戦後、洋裁が盛んになり、洋裁人口が多かった時代は、家庭洋裁によるものや仕立物が多かったが、昭和30年代より徐々に既製服が幅を利かせるようになり、昭和40年代には完全に既製服の時代になった。洋装生活の完全なる定着化、大メーカーによる大量生産技術の進歩、サイズの多種化、注文服の仕立代の高騰、小売ブティックの増加、化学繊維の発達、レジャーの多様化などがその理由であった。
日本の洋裁は、おおかたが紙上で原型を作図し、それを基に、デザインした服の型紙をおこす平面裁断である。原型の作図法は、主たる洋裁学校がそれぞれ独自のものをもっており、文化式、ドレメ式、田中式、伊東式などが主たるところである。いずれも、服のデザインを決めたのち、着用者の各部位の採寸、原型作成、型紙作成、裁断、仮縫い、本縫い、仕上げの基本的過程は共通している。学校の家庭科の授業では、この原型を用いた型紙教育を行っている。標準寸法を基にしてつくった服の型紙の着丈、身丈、胸囲、胴囲、袖(そで)丈などを、各自の寸法に応じて補正するものである。しかし、かつてのようにいかに洋服をつくるかというよりも、既製服を上手に利用するための目を養うためにつくる方向に変わってきているのは事実である。また、第二次世界大戦後アメリカから導入されたパターン・ソーイングもこの平面裁断の変形であり、これをさらに簡単な作図法にした箱型紙(方形の枠の内に作図していく簡略型紙)や方眼用紙を利用した簡便な方法もある。
一方、これと対照的なものが立体裁断(英語でドレーピング、フランス語でクープ・ド・ムラージュ)である。これは、原型をつくるかわりに、トアール(粗布)か紙を人体(または人台)に当てて、印をつけて裁断し、それを人体から外して型布とし、実際に用いる布の上に配置して裁ち合わせる方式である。布を直接、立体的なものに当てて、その動きや量を見られるという特徴がある。この方式は、明治初期に西洋人によって男子服職人に伝えられ、婦人服の仕立屋でも用いられたが、和服感覚の消えやらぬ日本人の間には、独自に開発した平面裁断が大量伝達の方式として普及した。だが第二次世界大戦後、欧米のファッションが日本に大量に導入されるようになると立体裁断への関心が増し、その重要性も認められ、現在では被服構成の教育カリキュラムにも含まれている。
洋服仕立てには、二つの主要な流れがある。フランスのクチュール(洋裁店にみられる一点物製作)とアメリカの大量生産方式である。フランスのクチュールはいくつかのアトリエをもっており、ローブ(ドレス)とタイユール(コート類)とに分かれている。ここでは、クチュリエ(男)またはクチュリエール(女)がデザインをすると、先に述べた立体裁断の方法のように、シェフが人体または人台にトアールを当てて印をつけて裁断し、お針子が縫う。仮縫いは最低4回はなされ、1着の服は1人のお針子が一貫して受け持つのである。
アメリカは既製服の発達している国であるが、大量生産の合理的な過程が確立されている。まず、チーフデザイナーがデザインしたスケッチを基に、アシスタントデザイナーがサンプルメーカーにサンプルをつくらせる。この服の企画、生産、販売が決定されると、パターンに多少の変更を加えて工業パターンがつくられ、これを用いたサンプルがつくられる。ミスィズ、ミスプティ、ジュニア、ジュニア・プティ、ヤングジュニアまたはティーン、ハーフサイズ、ウィメンズに大別されて、おのおのは、さらに6~8種のサイズにグレード(拡大や縮小)される。用布を見積もり、型紙にあわせて印をつけ、布を何センチメートルもの厚さに重ねたまま裁断し、各部分部分を縫い合わせ、付属品をつけて仕上げられる。これらはすべて機械化されており、分業によって行われる。日本の既製服製造過程もほぼこれと同じである。
日本の洋裁は、多分に和裁の影響を受けており、細部にまで及ぶ縫製技術偏重のきらいがある。これは、表から見えない個所までていねいに縫い上げるという、アメリカの19世紀的洋裁に似ている。一方、服というものは最終的に着られさえすればよいという考えが前提にあるところから、フランスやイタリアなどでは、手を抜けるところは抜いても、着装時に服のかもし出す雰囲気を尊重し、美しく、しかも個性豊かなファッション性のほうを重要視するようである。つまり、服というものを一つの物としてみるか、自己表現の一手段として考えるかという相違がある。今日のアメリカの消費文化のなかでは服は着捨てられるが、ヨーロッパではできるだけ長く、ときには数世代後まで残そうとする。歴史、社会、文化、経済、人間性などの背景の相違からくるものであろう。
日本人は外来文化をすばやく取り入れ、従来の文化に同化させて、新しいものをつくりだす才がある。洋裁においても外来のものを消化して日本のものとし、いまではパリ、ニューヨーク、ミラノなどのファッションのメッカと並んで、世界市場への進出を果たすまでになった。これは、欧米の洋裁技術教育の普及と、日本の着物の伝統を踏まえたデザイナーたちの独創性に負うところが大きい。さらに、西欧化された日常生活に不可欠となった洋服にかかわる教育、出版、製造、商業などの各業界によってつくられた総合的発展の素地を無視することはできない。
[田村芳子]
『遠藤武・石山彰編『図説日本洋装百年史』(1962・文化服装学院出版局)』▽『朝倉治彦・安藤菊二・樋口秀雄・丸山信編『事物起源辞典・衣食住編』(1970・東京堂出版)』▽『リーダーズダイジェスト編『世界の家庭叢書 ホームソーイングブック』(1978・日本リーダーズダイジェスト社)』▽『日本風俗史学会編『日本風俗史事典』(1979・弘文堂)』▽『東京婦人子供服工業組合編・刊『東京プレタポルテ50年史』(1982)』
洋服をつくるための裁縫の意で,和服をつくるための和裁に対する言葉。幕末の洋服導入に伴ってつくられた語で,今日では一般的に家族の衣服をつくるため家庭で行う裁縫の意味で用いられる。したがってここでは明治初期に伝えられた仕立技術がどう広められたかについて触れることとする。
日本の洋裁の歴史はミシンの導入とともに始まる。ミシンはペリーの来航のおり,将軍徳川家定夫人に献上されており,1860年(万延1)には遣欧使節に加わった中浜万次郎がミシンを持ち帰っている。その前年(安政6)に宣教師として来日したE.G.ブラウン夫人がミシンを持参し,在留外国人の注文にこたえるべく助手として日本人の足袋職人沢野辰五郎を雇い入れた。彼は日本人として初めて洋服の裁ち方,縫い方,仕立てを学び,後年婦人服店を開業する。当時の錦絵にはミシンを使う女性が描かれている。72年(明治5)にはドイツ女性が東京築地に洋裁学校を開いたが,このころ洋裁技術をもつ外国人女性が次々に来日し,日本人に教えはじめた。同年の服制によって宮中と官吏の制服は洋服となり,急激に増えた需要にこたえるため男子服の洋服屋が次々に店を開いた。中期の鹿鳴館時代以降,女子への洋服化推進の動きで洋裁が普及するようになる。87年ころには《男女西洋服裁縫独案内》はじめ多くの技術書が出版された。1906年にはシンガーミシン裁縫女学院が開かれ,続いて和洋裁縫女学院が,また高等女子教育機関に洋裁の教科が設けられた。19年には並木伊三郎が婦人子供服裁縫店を開き,翌年裁縫所を併設した。22年に文化裁縫女学院となり,36年には文化服装学院となって現在に及んでいる。
1919年からは雑誌《婦人之友》に毎号洋裁記事が掲載され,寸法入りの型紙も発売された。大正末から昭和初期には採寸に尺寸とメートル法が併用されていたが,洋裁教授所を開いていた菅谷きよはメートル法に慣れない女性のために,ひもを折りたたんで1/2,1/4と数えて採寸,製図する菅谷式折畳裁断法を考案し,地方の女性にも喜ばれた。
昭和に入ると,1926年に杉野芳子のドレスメーカー・スクール,29年には伊東茂平の伊東衣服研究所,37年には田中千代服装学院が次々と開かれ,現在にいたる洋裁学校の揺籃(ようらん)期を迎えた。しかし第2次大戦中は衣料不足から,たとえば袴からスーツをつくるといった衣服改良研究が主に行われた。戦後は衣料不足を補う意味と,洋裁で身を立てていく女性のために洋裁学校が急激に増えた。たとえば戦前の50校に比し,1947年には400,49年には2000に達している。洋裁習得希望者があふれ,小中学校の校舎を借りて授業をするほどであった。46年には服飾雑誌《装苑》が復刊され,3年後には《ドレスメーキング》も創刊された。また54年には桑沢洋子の桑沢デザイン研究所が開かれ,洋裁界は文化,田中,杉野(ドレメ),伊東,桑沢とほぼ五つに分かれ,卒業生たちはやがてデザイナーやファッション産業に進出していくこととなる。今日ではこれらの洋裁技術はそれぞれ文化式,田中式などと呼ばれているが,その違いは基本的にはゆるみのとり方による裁断の違いにある。シルエットを重視するか,あるいは機能性を重視して運動量を考えたやり方にするかなどであろう。いずれも平面製図による型紙を用いているが,近年は立体裁断も行われている。立体裁断は第1次大戦後,パリのデザイナー,ビオネMadeleine Vionnet(1876-1975)によっても考え出され,人台に布をあて,デザインしながらカットしていくやり方で,その結果ドレープやバイアス裁ちが容易になった。体になじんだ衣服がつくり出されるようになり,今日では立体裁断が主流となっている。
洋裁の特徴は,和裁が一定の形を直接布から,一定の方法で裁ち,仕立ても平面的で体に合わせて着用するのを目的とするのに対して,好みの形をきめ各自の寸法を計り,体型に合わせて型紙をつくり,立体的に仕立てるところにある。したがって人体に合わせるため各所にダーツやプリーツ,ギャザー,その他の技術を要する。また手縫いを原則とする和裁に対し,縫製のほとんどはミシンで行われる。用いる素材も和裁に比べはるかに多く,材質にあった裁断,針や糸などの用具が求められる。工程としては一般的には各自の寸法を計る採寸,型紙をつくる製図(立体製図と平面製図),型紙にもとづいての裁断,仮仕立てして着用者に着せ調整する仮縫い,本縫いの順序で仕上げられる。
→裁縫 →和裁
執筆者:池田 孝江
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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