沼間守一(読み)ヌマモリカズ

デジタル大辞泉 「沼間守一」の意味・読み・例文・類語

ぬま‐もりかず【沼間守一】

[1844~1890]政治家ジャーナリスト江戸の生まれ。明治維新後、大蔵省司法省元老院出仕嚶鳴社おうめいしゃを興し、「東京横浜毎日新聞」を経営した。立憲改進党結成参加

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「沼間守一」の意味・読み・例文・類語

ぬま‐もりかず【沼間守一】

  1. 明治初期の政治家、新聞記者。維新後、判事・元老院権大書記官を歴任。退官して嚶鳴社を起こし民権論唱え、明治一二年(一八七九)から「東京横浜毎日新聞」を経営。東京府会開設時の副議長、立憲改進党創立に参加。天保一四~明治二三年(一八四三‐九〇

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「沼間守一」の意味・わかりやすい解説

沼間守一
ぬまもりかず
(1843―1890)

明治時代のジャーナリスト、民権家、政治家。天保(てんぽう)14年12月2日幕臣高梨仙太夫(たかなしせんだゆう)の二男として江戸・牛込(うしごめ)に生まれ、のち沼間平六郎(へいろくろう)の養子となる。旧称慎次郎(しんじろう)、雅号不二峰楼(ふじほうろう)主人、弄花(ろうか)。幕末に英学および洋式兵術を修め、戊辰(ぼしん)戦争では幕府側の主戦派として東北地方を転戦。1868年(明治1)9月庄内(しょうない)藩で縛につき、翌1869年放免され、一時土佐藩邸で英学を講じた。1872年大蔵省出仕、まもなく司法省に転じ洋行、翌1873年帰国、1875年より元老院権(ごん)大書記官となった。元老院時代「わっぱ騒動」調査に敏腕を振るったことは有名。また言論の重要性を洋行体験で認識し、帰国後、東京・下谷(したや)に法律講義会を開設、のちこれを嚶鳴(おうめい)社と改めて政治講究の場とし、近代思想を盛んに唱導した。1879年政府の官吏政談演説禁止策に抗して元老院を辞任、『嚶鳴雑誌』『東京横浜毎日新聞』を経営して民権運動の発展に尽くし、1882年には立憲改進党の結成に参加、以後、党領袖(りょうしゅう)として活躍。また1879~1890年の間東京府会議員として府民のために奮闘、この間1882年からは同議会の議長を務めた。明治23年5月17日没。墓は東京寛永寺にある。

[安在邦夫]

『石川安次郎著『沼間守一』(1901・毎日新聞社/復刻版・1993・大空社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「沼間守一」の意味・わかりやすい解説

沼間守一 (ぬまもりかず)
生没年:1843-90(天保14-明治23)

明治時代のジャーナリスト,政治家。幕臣高梨家の次男として生まれ,沼間平六郎の養子となる。長崎で英語,兵書を学び,陸軍伝習所で洋式兵術を学ぶ。戊辰戦争主戦論を唱え,軍人として名をはせた。明治新政府では大蔵省,司法省,元老院と転ずるが,72年(明治5)洋行し自由民権思想にめざめる。73年言論抑圧に抗し官吏をやめ,河野敏鎌らと法律講習会(嚶鳴社(おうめいしや))を結成,79年《嚶鳴雑誌》を発行し,また《横浜毎日新聞》の社長となり,《東京横浜毎日新聞》と改題して筆をふるった。82年立憲改進党(改進党)結成の中心メンバーとなり,84年には解党論に反対し,党の存続に努力した。一方東京府会議員となり,議長をも務め,自治制度の確立に尽力した。弁舌のうまさは定評があり演説家としても有名である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「沼間守一」の解説

沼間 守一
ヌマ モリカズ


肩書
東京府議,嚶鳴社主宰

本名
沼間 慎次郎

旧名・旧姓
旧姓=高梨

別名
号=弄花生

生年月日
天保14年12月2日(1843年)

出生地
江戸

経歴
幕府伝習所で洋式兵術を学び、幕臣として戊辰戦争で戦う。維新後、明治5年新政府の租税寮に入り、司法省に転じて欧州に派遣される。一年間の滞欧中民権思想にふれ、帰国後法律講習会を主宰し、のち嚶鳴社と改組。判事、元老院権大書記官を歴任するが、12年辞職。同年東京横浜毎日新聞社長、東京府議。15年東京府会議長。国会開設・自由民権思想の普及に務め、自由党結成に参加したが、嚶鳴社を率いて立憲改進党に参加し、幹部となる。

没年月日
明治23年5月17日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沼間守一」の意味・わかりやすい解説

沼間守一
ぬまもりかず

[生]天保14(1843).12.2. 江戸
[没]1890.5.17. 東京
ジャーナリスト,政治家。初め幕臣で,長崎に行き,英語などを学んだ。明治5 (1872) 年から大蔵省,司法省に出仕したが,新政府になじまず,1874年起した法律講習会を 78年5月に嚶鳴 (おうめい) 社と改称した頃から,反政府色の強い自由民権思想を主張しはじめ,翌年に元老院権大書記官を辞職。機関誌『嚶鳴雑誌』を創刊,80年 11月には最初の日刊紙『横浜毎日新聞』を買受けて東京に移し,『東京横浜毎日新聞』と改題して,急進的な民権論の舞台にした。特に官権派の『東京日日新聞』の福地源一郎 (かつては法律講習会の仲間) との論戦が有名。 82年立憲改進党の結党に参画して貢献し,82~90年東京府会議長をつとめた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「沼間守一」の解説

沼間守一

没年:明治23.5.17(1890)
生年:天保14.12.2(1844.1.21)
明治時代の政治家,ジャーナリスト。幕臣高梨仙太夫の次男として,江戸牛込に生まれる。幼名慎次郎。幕臣沼間平六郎の養子となる。養父と共に長崎へ行き,英語と西洋兵学を学ぶ。幕府の陸軍伝習所歩兵科卒。明治維新後,横浜税関や司法省に勤務し,明治4(1871)年,岩倉遣外使節団に随行した。西南戦争後の11年,政談演説討論を目的とする嚶鳴社を組織し,12年には機関誌『嚶鳴雑誌』を発行し,自由民権運動を展開。同年11月,『横浜毎日新聞』の経営を引き継ぎ,『東京横浜毎日新聞』を創刊。15年,嚶鳴社の島田三郎,肥塚竜らと立憲改進党の結党に参画した。同年東京府会議長。<参考文献>田中浩編『近代日本のジャーナリスト』,木村毅編『明治人物論集』(明治文学全集92巻)

(井川充雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「沼間守一」の意味・わかりやすい解説

沼間守一【ぬまもりかず】

明治の政治家,新聞記者。幕臣の子。戊辰戦争では主戦論を唱え,新政府軍と戦った。維新後大蔵省・司法省に出仕,薩長の専横に憤り,1875年辞職。再び元老院に出仕したが1879年下野。また1873年河野敏鎌と嚶鳴(おうめい)社を組織,1879年《横浜毎日新聞》を買収して《東京横浜毎日新聞》として発行,国会開設・自由民権思想を流布。立憲改進党結成に参加。1882年―1890年東京府議会議長。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「沼間守一」の解説

沼間守一 ぬま-もりかず

1844*-1890 明治時代のジャーナリスト。
天保(てんぽう)14年12月2日生まれ。戊辰(ぼしん)戦争では幕府側として奥羽各地を転戦。維新後,官吏をへて法律講習会(のち嚶鳴社(おうめいしゃ))を設立して言論活動を推進。また「東京横浜毎日新聞」を経営して自由民権をうったえた。明治15年立憲改進党の創立に参加した。明治23年5月17日死去。48歳。江戸出身。本姓は高梨。号は弄花生。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「沼間守一」の解説

沼間 守一 (ぬま もりかず)

生年月日:1844年12月2日
江戸時代;明治時代のジャーナリスト;政治家。東京横浜毎日新聞社長
1890年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の沼間守一の言及

【嚶鳴雑誌】より

…明治時代,自由民権期の政論雑誌。1879年10月25日,沼間守一(ぬまもりかず)主宰の政治結社嚶鳴社を母体に創刊された。初期のころは末広重恭校閲で,沼間,末広,青木匡ら嚶鳴社メンバーの政談演説の草稿を収録。…

※「沼間守一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android