日本歴史地名大系 「浅生田村」の解説 浅生田村あそうだむら 愛媛県:松山市重信川北岸地域(旧久米郡・下浮穴郡地区)浅生田村[現在地名]松山市朝生田町(あそだまち)松山平野の南平坦部に位置する農村。東は立花(たちばな)村・中(なか)村・尼山(あまやま)村・石井(いしい)村、西は和泉(いずみ)村・小栗(おぐり)村、南は石井村・和泉村、北は立花村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の久米(くめ)郡の項に「浅生田村 小川有」とある。天保郷帳にも浅生田村と書かれているが、明治五年(一八七二)の「松山領里正鑑」には朝生田村となり、現在もこの表記が用いられて「あそだ」町とよんでいる。 浅生田村あそうだむら 長野県:飯山市浅生田村[現在地名]飯山市大字常郷 大坪麻生田(あそうだ)村とも書き、大坪(おおつぼ)村南方にあった村。廃村になった年月は不明であるが、「長野県町村誌」は、慶長年間(一五九六―一六一五)検地に際し古来の大坪・浅生田二ヵ村を併せて一村としたと記す。下今井(しもいまい)村字大石枚(おおいしひら)の入会地につき、今井・浅生田両村間に争いを生じ、入山をことわられた浅生田村では、元和四年(一六一八)三月六日百姓一一名が連名で入会の由緒を述べ、もとのように利用できるよう飯山城主佐久間安政に訴えた。訴状に「景勝様(上杉)御代に彦右衛門と申者、川向いぬかひ村の者にて御座候を、今井村平右衛門と彦右衛門知音にて御座候について、平右衛門才覚を以て、彦右衛門引よせ、あそう田と申所を新田を開候」といい、開発時に採草地を今井山と定めて以来当年まで二五年間代々領主の時も変わりなく入山したと述べている。 浅生田村あそだむら 石川県:鳳至郡門前町浅生田村[現在地名]門前町浅生田浦上(うらかみ)村の西、浦上川支流の谷間山地に立地。天正一〇年(一五八二)一〇月九日の前田利家黒印状(本郷文書)に「櫛比八ケ之内(中略)阿さう田」とみえ、長田猪介らが当村ほか近隣村の内に扶持米を与えられている。正保郷帳では高五九石余、田方一町七反余・畑方二町二反余。承応三年(一六五四)の村御印の高六二石余、免四ツ二歩(能登奥両郡収納帳)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by