立花村(読み)たちばなむら

日本歴史地名大系 「立花村」の解説

立花村
たちばなむら

[現在地名]北上市黒沢尻町くろさわじりちよう 立花

北上川の左岸にあり、対岸西方黒沢尻村里分さとぶんとの間に渡船場があった。北の黒岩くろいわ村から入り、寺坂てらさかを越えて仙台藩領江刺郡下門岡しもかどおか村に通じる道のほか、仙台藩領に通じる小道が三本ある。「北上市史」によると、鎌倉時代後期の和賀氏系図(鬼柳文書)に和賀義行の次男行時の所領として「橘郷 加橘内村」とある。「きちない」は当村の小字名。行時は「吾妻鏡」建長八年(一二五六)六月二日条にみえる奥大道警護を命じられた和賀三郎兵衛にあたる。天文二年(一五三三)一月、菊池三郎民部丞が立花郷一七貫文を宛行われ(「和賀義治宛行状」立花菊池文書)、永禄元年(一五五八)七月には菊池六右衛門が立花郷のうち一七貫文を宛行われている(「和賀主馬宛行状」小田島家記録写)

慶長八年(一六〇三)岩崎一揆で軍功のあった瀬川久太郎が橘村の三〇〇石余を宛行われ(「南部利直知行宛行状」瀬川系図)、同一九年には葛西庄兵衛に当村の二一八石余が宛行われている(「南部利直知行宛行状」岩手県志草稿)正保国絵図では高二七九石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高二九四石余とあり、七ヵ年平均の免は四ツ二厘九毛。


立花村
たちばなむら

[現在地名]美濃市立花

湾曲流する長良川右岸に位置する須原すわら谷の一村。立花湊がある。河岸のわずかな平坦地に集落が続き、郡上ぐじよう街道が通る。対岸は保木脇ほきわき村・曾代そだい村。橘とも記す。村名の由来について「新撰美濃志」は、「神皇正統記」に「嵯峨天皇先世に美濃国神野といふ所の僧なりしを、橘太后の先世にねんごろに給仕しけるを感じて相ともに再誕あり」と記されることから、橘皇后が当村に住んだと伝えることを根拠にしている。永仁二年(一二九四)九月二九日の関東下知状(尊経閣文庫蔵)に、「美濃国下有智御厨寺地・橘村」とみえ、同年八月二〇日の藤原景経譲状によって当地などが子の顕政に譲られている。建武三年(一三三六)八月二四日の九条道教家政所注進当知行地目録案(九条家文書)によれば、当地などの庶子分地頭職は闕所を理由に、一円本所のものとなっている。


立花村
たちばなむら

[現在地名]向島町立花

むかい島の南部に位置し、北から西にかけては山をもって向島西むかいしまにし村に接し、それ以外は海に臨む。属島にささ島がある。「芸藩通志」は「広廿八町、袤八町」と記す。もと向島西村の一部であったが、寛永年中(一六二四―四四)荒地を開いて分村し、字名をもって村名とした。その間の事情は、寛永一〇年二月二〇日尾道奉行川崎多左衛門からこの地の勘十郎らに宛てた書付(安永四年富浜開基以来万覚帳「日本塩業大系」所収)に次のように記される。


立花村
たちばなむら

[現在地名]松山市立花一―六丁目・拓川たくせん町・祇園町ぎおんまち泉町いずみまち春日町かすがまち室町むろまち・室町一―二丁目・柳井町やないまち一―二丁目

松山平野のほぼ中央平坦部に位置する農村。東はなか村、西は石手いして川を隔てて小栗おぐり村、南は浅生田あそうだ村、北は石手川の支流斎院樋さやひ(中ノ川)で松山城下町に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の温泉郡の項に「立花村 小川有」とある。村名の由来は、当村の境域を古代以来の立花郷の中心部と考えたためと思われる。橘村とも書く。

古代には温泉郡立花郷(和名抄)に属したと考えられる。天平勝宝四年(七五二)にこの地域に東大寺の封戸があったことは、造東大寺司牒(正倉院文書)に「温泉郡橘樹郷封五十戸」の記事で知られる。


立花村
たちばなむら

[現在地名]大平町西山田にしやまだ 立花

山田村の南西、馬不入うまいらず山の南麓に立地し、南東は白岩しらいわ村と接する。慶長一二年(一六〇七)の徳川家康寄進状(三浦周行氏所蔵文書)に「下野国橘郷内七拾石事」とあり、八幡宮に寄進されている。同一四年までは皆川氏領とみられる(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳では田七七石余・畑八一石余で幕府領。寛文四年(一六六四)の武蔵岩槻藩領知目録では寒川さむかわ郡内に村名が記される。天和二年(一六八二)下総古河藩領になったとされ、元禄郷帳では同藩領で高二六〇石余。享保七年(一七二二)より下総関宿藩領になったとされ、改革組合村では同藩領で家数二四。寛文三年の富田宿寄人馬帳(福島茂文書)によると、富田とみだ宿の助郷役を勤めている。


立花村
たちばなむら

[現在地名]天水町立花

西部を唐人とうじん川が南流し、北は尾田おた村、南は小天おあま村、東は原倉はらくら(現玉東町)と接する。近世は小田手永に属する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に村名がみえ、元禄国絵図には「伊倉南方之内」とあってもとは伊倉南方いくらみなみがた(現玉名市)に含まれた。「国誌」に「高四百五十八石余、大塚村米山村等小村アリ」とある。宝暦一四年(一七六四)の下ケ名寄帳では惣畝数四〇町三反三畝余、高四六一石五斗余、下ケ名に正法寺などがある。明治一一年(一八七八)頃の戸数一三五・人数六七二、牛馬九九、日本型船二(五〇石未満漁舟)古川ふるかわ溝などを用水とする。


立花村
たちばなむら

[現在地名]守山市立田町たつたちよう

幸津川さづかわ村の南東、野洲やす川南流の右岸に位置。橘村とも記した。金森かねがもりの一向一揆に蜂起した東近江衆を構成した地域で、元亀三年(一五七二)三月二一日の起請文(蓮井文書)によれば「富田・立花、惣百姓惣代」の名で一揆に同心しないことが誓われている。


立花村
たちばなむら

[現在地名]清水市立花

興津おきつ川を挟んで小島おじま村の北東、同川中流左岸に位置する。「万葉集」には「橘の美袁利の里に父を置きて道の長道は行きかてぬかも」(丈部足麻呂)の歌が載り、この橘の美袁利の里は当地であるとされる。古くは橘と書き、文化九年(一八一二)に立花と改めたという。江戸時代の領主の変遷は横山よこやま村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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