浅谷村(読み)あざかいむら

日本歴史地名大系 「浅谷村」の解説

浅谷村
あざかいむら

[現在地名]旭町浅谷

矢作川の右岸にあり、支流阿妻あづま川に沿う。東は須淵すぶち村、南は矢作川を隔てて時瀬ときぜ村、西は野原のはら村・一色いつしき村、北は現岐阜県恵那えな明智あけち町に接する。集落は小起伏面上、四方を山に囲まれた小盆地状の傾斜地に点在。現主要地方道瑞浪―大野瀬線が通る。縄文時代の遺跡が多く、前期・中期の上万場かみまんば遺跡、後期の飛腰とびこし遺跡、晩期大屋おおや下洞しもぼら・ヒジリだいら遺跡、時期不詳の下平しもだいらたきうえ・キビウ・川木平かわきだいら遺跡の九遺跡がある。いずれも山麓の傾斜地に立地。上万場・キビウ両遺跡からは平安時代の遺物出土。浅谷城跡が山上にある。相対する山頂を平らに削って二つの郭がある。城主名などは不詳。

慶長八年(一六〇三)明知あけち(現明智町)に陣屋を置く旗本遠山利景の知行地となり明治に至る。


浅谷村
あざかいむら

[現在地名]足助町やま

ともえ川の支流神越かみこし川の右岸に沿う。東は御内蔵連みうちぞうれ村、南は神越川を隔ててやま中立なかだち村、西は山蕨やまわらび村、北は室平むろだいら村・椿立つばきだち村・綾渡あやど村に接する。集落は神越川に迫る急斜面の谷地形で、山麓に点在。浅谷あざかい城跡が神越川の急流断崖となって迫る尾根の突端部近くにある。本丸は約五アール、北側に二の丸、その西下に三の丸がある。西と南は断崖絶壁。山続きとなる東には二条の堀切(空堀)を設ける。北側は比較的緩やかで、居館跡にも想定できる平地もあって、街道に臨む。「三河国二葉松」は、簗瀬九郎左衛門あるいは太郎法名道悦居城と伝える。戦国時代の足助七城の一つに数えられ、元亀二年(一五七一)の武田信玄西三河乱入のときに落城と伝える。


浅谷村
あさだにむら

[現在地名]大川村朝谷あさだに白滝しらたき

大北おおきた川の支流朝谷川に沿う山間の村で、北は伊予国。本川ほんがわ郷の一村で、宝永三年(一七〇六)の「本川風土記(南路志)には「朝谷村」と記され、東西二町余南北一里余、「惣体土地黒、但在所西向西下之処也」とある。また「薊谷村」とも記される(元禄地払帳)

慶長一六年(一六一一)の本川之内高野村検地帳に「アサ谷村」とみえ、二筆で検地面積三五代。いずれも山畠とされているが「ゐ」と記される。元禄地払帳では総地高二・一石、うち本田高二石、新田高〇・一石。


浅谷村
あさのたにむら

[現在地名]砺波市浅谷

安川やすかわ村の東、和田わだ川の小支流浅谷川沿いにある。谷頭の緩斜面棚田がみられる。東は別所べつしよ村。元和五年(一六一九)の家高新帳には「浅ノ谷」とあり、開発組に属し役家数六。正保郷帳には浅ノ谷村とあり、高四〇石余、田方七反余・畑方一町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五四石・免四ツ九歩、小物成は山役六〇目(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には二軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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